あるジャーナリストの死(04・6・23) |
さて、ここのところ、「年金政局」(=大作VS菅政局)に介入しまくっていたせいもあって、政治部の記者や週刊誌の編集者連中が大騒ぎする、表層の激しい波しぶきのレベルでアジりまくるという、何ともケツの軽〜い原稿が並んでしまいました(笑)。
まあ、明日、公示になる夏祭り(参院選)については、また、改めて筆を取ることとして、今回はその間にも着実に刻一刻と泥沼化(=アリ地獄化)している、イラクのことについて触れてみたいと思います。
既にご承知の通りですが、イラクで2人の日本人ジャーナリストが殺害されました。橋田信介さんと小川功太郎君です。
橋田さんは還暦を迎えた61歳、その甥である小川君はまだ32歳の若さです。
この2人とはまったく面識はありませんが、同じ仕事に携わる者として、本当に胸が痛む思いがします。心から2人のご冥福をお祈り申し上げます。
橋田さんの方は、既にベトナム戦争時代から従軍体験があり、カンボジア、湾岸、アフガンと戦場に足を運んで、主に映像によってニュースを伝えておられた方です。
つい、先日、日曜深夜に放映されている日本テレビ系の「NNNドキュメント04」で、橋田さんの奥さんと息子さんが、橋田さんの遺体を引き取りにクウェートまで向かい、そして、彼の取材拠点であったバンコクで荼毘に付すまでの表情をずうーっと追っていました。
奥さんはこれまでの記者会見では、「橋田はああいうふうに戦場で死ねて本望だったと思います」と、凛とした表情で語っていたのが印象的でしたが、会見の場を離れ、亡き夫の形見である取材ノートや本、映像機材との“再会”を現地で果たしたとき、とりとめのない大粒の涙をこぼしておられ、見ていて、何とも胸がしめつけられました。
その橋田さんの甥である小川君というのも、早稲田大学を卒業して、NHKに入り、いわば“キャリア社員”としてディレクターの仕事に携わってきた人です。彼の正確な履歴はわからないのですが、ジャーナリズムの役割をまったく放棄し、“官報新聞”に堕落していることにすら無自覚になっている腐れ社畜記者連中にヘドを吐き、辞表を叩きつけて会社を辞めた私と、ほぼ年齢的に重なっているのです。
そういえば、私が2度目の退社となる東京新聞を辞めたのが、31歳のときでした。
別に東京新聞を辞めたとき(もちろん、最初の毎日新聞を辞めたときもそうでしたが)、その先をどうするかを考えていたわけではなく、体が勝手に動いてそのような行動に尽き動かしてしまったわけで、おそらく、小川君もそうだったのでしょう。
聞くところでは、NHKを退社後、小川君はアジアの旅行代理店で仕事をしていたらしいとのことですが、やはり、自分のやるべき道は他のところにあると閃いたのか、バンコクにいる叔父である橋田さんのところに身を寄せ、アシスタントという形で、たまたま、目の前にあった「イラク」という戦場に赴いていったようです。
その小川君が、フリーのジャーナリストとして最初に書いた原稿が、『現代』の6月号に載っています。タイトルは「ファルージャ突入記——憎悪と殺意と悲しみの街」で、枚数的には、400字詰め原稿用紙で30枚程度でしょうか。
しかし、図らずも、このデビュー作が彼にとっての「遺稿」となってしまいました。
いま、この小川君の原稿をもう一度、読み返していて、確かに全体として派手派手しい装飾語もなく、回りくどい技巧もありません。むしろ、筆致を抑えた淡々としたトーンが全体を流れています。
で、戦地であるイラクで、そこに住む人々に対し、ある種、稚拙ともいえる質問を小川君がストレートにぶつけていく中で、米兵の乱射で7歳の子供を殺害され、刑務所では毎日虐待を受けていたというカリルという39歳の男性が、こう答えているくだりがあります。
<話が一段落したところで、気になる質問をぶつけてみる。
「サマワに自衛隊が来ていますが、賛成ですか? 反対ですか?」
「日本人に恨みはないけど、アメリカのせいでいまは外国人が嫌いだ。早くこの国から出ていってくれ。なにもしないのに家は壊され、金も全部持っていかれて、子供も殺された。この俺の悲しみがわかるか? もし、イラク人が日本で同じことをしたら、あんたらどう思う? 我慢できるか?」
カリルの顔が赤みを帯びてくる。
「日本人は第2次世界大戦で占領の苦しみを知ってるはずだ。同じ痛みがわかるはずだろ」>
たまたま、『現代』のこの小川君の“遺稿”が終わった次のページをめくると、そこにあったのは、加藤紘一のインタビュー、「いまだ、改憲の時機にあらず」でした。
そこで、加藤氏が議員辞職して浪人中、地元・山形を必死にドサ回りしているときに、ある漁村でこうおばあちゃんに言われた話を紹介しています。
「難しいことはわからんけど、この間の戦争未亡人が、80歳や90歳でまだ生きてるんだよ。それなのにあんたたちは、また戦争を始めるのかい」
今年93歳になる私の祖母も、同じ“戦争未亡人”ですが、今でもよく、「戦中・戦後」の話を聞かされます。
人生の伴侶を失った戦中の苦しみはもちろんですが、一家の大黒柱を失って、その戦後の「占領期」をくぐり抜けてきたわけですが、彼女が口癖のように言う言葉が、「あの時代は本当に貧乏の底をはいずり回ってきた」と。
そして、この「占領統治」の凄まじさは、日本で唯一、地上戦の舞台となった沖縄だと、まさに、それこそ筆舌に尽くしがたいものになっています。
池田・小泉政権が、イラクの自衛隊を派兵していること愚妹ぶりは、もはや「何をいまさら」の指摘ですので、話を小川君に戻しますと、この小川君の“遺稿”には、当初、編集部とのやりとりで削られた、最後の締めくくりの文章があり、翌7月号の『現代』の勝谷誠彦追悼・戦場ジャーナリストの視線——師匠橋田信介よ、小川功太郎君よ」では、それを復活させる形で、掲載されています。
<第二次世界大戦以降の世界の紛争地で、ここまで明確な政治的意志をもって日本人が狙われたことはなかった。今のイラクに滞在すること自体、無謀だという意見はあるだろう。批判は甘んじて受け入れる。しかし、なぜ、こんな事態になってしまったのか、今こそ逃げずに考えるべきでないかと自分自身に言い聞かせながら、私はバクダットに残っている。自衛隊員も外交官もNGOもジャーナリストも、少しでもイラクの役に立ちたいという共通の思いの元に各々の仕事をしているのだと私は信じたい。>
この一文を読み返しながら、思わず、落涙してしまいました。
もちろん、兵士であれ、民衆であれ、外交官であれ、NGOであれ、一人の人間がこうして非業の死を遂げることが、この上のない悲しみであることに何の変わりはありません。
ただ、自分の場合は、同業者として、こんなにまっすぐな視線とみずみずしい感性を持っていた、前途有望な若いジャーナリストが(もちろん、私自身も若いつもりですが)、こんな形でイラクの地で尊い命を落としてしまったことに、もっと深い悲しみを感じるのです。
ふと思ったのですが、私の場合、“新聞記者卒業”をした時点で、ちょうど目の前に「自・自・公」路線が現出していたため、また、「新聞記者出戻り」みたい感じになってしまいました。で、もし、自分がいま、小川君のような立場だったとしたら、きっと、イラクにサクッと向かっていたに違いないと思うのです。
それを考えると、「小川君の死」が人ごとであるとは、到底、思えないのす。
この2人の日本人ジャーナリストが殺害されたことが判明したとき、小泉純一郎は、半ば喜々とした表情で、次のように言ってました。
「だから、自己責任って言ったでしょう」
これとほぼ同様の発言は神崎武法もしていますが、この発言の裏にある真の意味とは、要は「“お上”に楯突いてくる人間は、お前らのように虫けらのように殺されて当たり前だ」ということでしょう。この小泉の「自己責任発言」を聞いたとき、私は「あっ、これは自分に向けられている言葉なんだ」と思いました。
これまでいろんな戦場をくぐり抜けてきたベテランジャーナリストの橋田さんは、「戦場では、むしろ、正規軍同士が交戦をやってる方が、まだ、“安全”なんだ」ということを言っていたといいます。
今回の橋田信介さん、小川功太郎君のふたりのジャーナリスト殺害が、たまたま偶然、通りがかった車両が狙われたものなのか、それとも、わざと日本人をターゲットに狙ったものなのかはわかりません。
ただ、これは私の動物的なカンでしかないのですが、このような橋田さんのような“百戦錬磨”のベテランが命を落とすというのは、いまのイラクの情勢は本当にとんでもないところに入り込んでしまっているのではないか。そんなことを思うのです。
ちなみに、その前出の勝谷誠彦氏の文章でも、橋田さん、さらには同じく殺害された交官だった奥克彦、井ノ上正盛の両氏も、移動の際は護衛をつけ、後ろをちゃんと監視するという、実に慎重な人間だった。そういう人たちが軒並み命を落としてしまったことに、「途方もない無力感を感じる」と書いています。
考えてみると、体を張って、時には命を賭けることも厭わない、こうした「真のジャーナリスト」とは、ほんとに「因果な商売」だとつくづく思います。
たまたま、先日、マイケル・ムーアの「ボーイング・フォー・コロンバイン」などの上映を手掛ける、ミニシアターのメッカでもある恵比寿のガーデンシネマで、『ヴェロニカ・ゲリン』という映画を見てきました。
このヴェロニカ・ゲリンとは、実在したアイルランドの女性新聞記者で、首都・ダブリンでマフィアの麻薬密売事件を取材しているうち、そのスクープ記事が出る前日に、その“取材対象”によって銃殺されました。
全体の作りは、ハリウッド映画らしく、何ともきらびやかにゴテゴテしていて、真っ赤なスポーツカーに乗って颯爽と取材に出かけるブンヤなんて、洋の東西を問わず、「そんなのいるわけねーだろ」と思いました。それと、ブンヤ(=ジャーナリスト)という人種は、私も含めて、鼻っ柱が強いのですが、取材対象に対しては、やはり腰が低いというか、姿勢も目線も低いです。映画の中の主人公は、そういった姿勢がまったくなく、何とも高飛車に取材対象に畳みかける部分が、“ウソ”だと思いました。
まあ、その2点が、商業映画としての脚色ということで、見ていて、非常に鼻につきましたが、しかし、マフィアのいかなる脅しにも屈せず、取材を敢行していく姿はなかなかの圧巻でした。
そこで私が非常に面白かったのは、彼女が殺害されたことで、アイルランドでは一挙に「反麻薬、反マフィア」の世論が一挙に燃え上がり、そうやってヴェロニカ・ゲリン殺害に手を下した連中が次々とお縄になった一方で、こうしたマフィアの不正取引を規制する法案が議会で可決、成立したり、警察が力を入れて取締りを行った結果、こうした麻薬の被害(特にその犠牲になっていたのが、まだ若い子供たちでした)が急減したということです。
そのとき、私が思ったことは、「『ペンは剣より強し』ということの意味は、こういうことなのか」ということでした。
じつは、この「ヴェロニカ・ゲリン」と同じことは、この橋田さん、小川君のケースでもまったく当てはまっていて、このふたりの、文字通り命を賭けた勇気ある取材活動によって、「戦闘地域・イラク」の実態が、この地球の裏側にある日本にも伝えられ、その事実が彼らの死によって、さらに重く私たちの胸に響いてきているという、厳然たる事実があります。
そして、奇しくも、橋田さんの死によって、彼の本が増刷されて売れているという現象すら、起こっています。
私など、橋田さんに比べたら、“命の値段”など全然、低いというか、なきに等しいのでどうしようもないですが、ひょっとして、この国を民主化する最短の道は、まあ、例えて言うなら、池田大作が山口組系暴力団の後藤組あたりに20億円でも渡して、私を殺害することなんだと思いました。
まあ、私の場合は、まだ、橋田さんや小川君、そして、ヴェロニカ・ゲリンほどの「ジャーナリストとしての価値」はなきに等しいですが、せめて、そうやってヤラれたときに、世論が一挙に爆発して、もし、「古川利明の死を無駄にするな」という声が少しでも出て来ないのであれば、私がこの世に存在する意味もないといえます。
私もせめて、橋田さんに近づけるよう、今は「命の値段」をつり上げることぐらいしかできませんが、その橋田さんの奥さんが言っていた「戦場で亡くなって本望だった」という言葉の意味が、少し私にもわかったような気がします。
そこで、もう一度、橋田さんと小川君の冥福を祈り、深く頭を垂れるとともに、晩年のド・ゴールが作家のアンドレ・マルローと語った、『倒された樫の木』の中にある次の一節で締めくくりたいと思います。
<「死ってどんなものだか、君は知っているのかね?」
「眠りの女神です。私にとっては、死ぬことは全然、気になりませんでした。あなただってそうでしょう。私たちは、殺されることに無関心な人間の仲間です……」>
<「勇気は常に危険を無視するところにある。そして、次は暗殺されるか、爆弾で吹き飛ばされるかして、死なねばならないのだ」>
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