白川勝彦氏の新十日町市長選チャレンジを応援する |
私の友人とかでも異動で部署が動いたという人もいますが、私本人は組織とはまったくカンケイないので、年々とそういった年度替わりの「新しさ」を実感しにくくなっきています。
会社勤めをしていた頃だと、こうした異動が控える年度末が近づいてくると、私もイッパシの家畜系サラリーマンらしく(笑)、あちこちはいずり回って「人事情報」を収集し、「うーむ、今回は異動に引っ掛からんかったあー」「えーっ、アイツがあんなとこに異動すんのかよ」というふうにわめいていたものですが、そういうことからも、パッタシ遠ざかってしまいました。
本サイトB面のヒマダネの部屋にも書きましたが、こういうフリーランスの立場になってしまうと、この時期は、ただ桜の花だけが、出会いと別れが交錯する「年度替わり」を実感させてくれるだけですね(苦笑)<しみじみ。
それはともかく、この新年度突入に伴い、全国のあちこちで市町村合併が取り行われたようですが、本サイトでも幾度となくサポートしてきた白川勝彦氏が、このほど新しく発足した新潟県の新十日町市長選に出馬することになりました。
そのあたりの動きは、本サイトでリンクしている彼のウェブサイトをウォッチングしていればヴィヴィッドに伝わってきますが、今回はその白川氏の新十日町市長選の必勝を改めてここでひしと祈願するとともに、氏との思い出話めいたものも書かせて頂きたいと思います。
しばらく音信不通となっていた(笑)、白川氏から、「古川大兄とお会いしたい」と、メールで連絡があったのは、去年の秋のことでした。
超ヒマな本サイトの常連アクセス者の方々は既に承知かとは思いますが、白川氏は2000年6月の総選挙で落選後、「白川新党」を旗揚げし、翌01年7月の参院比例区に挑戦しましたが、健闘空しく、議席確保には至りませんでした。
この2度の敗北という痛手からか、その後、彼は突如として、彼の政治行動を強く後押ししていたあのBBSを閉鎖する一方、「永田町徒然草」をはじめとするウェブサイトの更新もほとんどなくなりました。このように、政治的な発言もすることなく、政治の表舞台から姿を消し、いわば、「行雲流水」のような日々を送っていました。
ところが、03年11月の総選挙で、当時の民主党が「自・公政権打倒」を旗印に、「できる限りの小選挙区で候補者を立て、当選者を出すことで、政権奪取を図る」ということで、田中真紀子の地盤である新潟5区からの立候補を表明したところ、例の秘書給与流用ギワクで刑事告発されていた真紀子が、公示直前に「嫌疑なし不起訴」の裁定が出たことで、自民党を離党して出馬したため、「自民党公認VS白川勝彦VS田中真紀子」という三つ巴になり、結局、真紀子が当選をした、というのも、既にご承知のことと思います。
自・公政権打倒のため、当時、私は田中真紀子に手紙を書き、自民党からの離党を強く促す一方、もし、真紀子が離党した暁には「白川VS真紀子」では「反自民」の票が共食いになるので、それを阻止するためには、候補者調整をし、白川氏を比例代表に回せば、「白川&真紀子」のダブル当選が果たせる、と盛んに本サイトで私が必死にアジ
ったのをご記憶の方も多いと思います。
が、当時の民主党執行部、正確には代表・菅直人、代表代行・小沢一郎、幹事長・岡田克也の3人が、これまでビックリすることに、一切、候補者調整に動くことがなかったのです。
そのため、白川氏は「民主党公認」という錦の御旗が取れずに、いわば、民主党執行部に“見殺し”にされた形になって、じつに、00年、01年、03年と3度も続けて
、国政選挙で落選の憂き目に遇うという辛酸を嘗めさせられました。
01年夏の参院選のときは、私もボランティアの一人として、ビラマキの手伝いをしましたが、あのときは、4月に「小泉&真紀子」が登場するまでは、森ヨシロウ内閣の末期状態で、内閣支持率も、ぬあんと、1ケタ台にまで落ち込んでいたのです。
それが、小泉の登場で、支持率と不支持率が、見事に逆転してしまって、そのときの参院選は自民党が圧勝してしまったのですが、今になってはせんのないことですが、あのとき、「森退陣」というファクターがなければ、白川新党で1議席は獲得していたと
思います。
白川氏が新党結成を表明したのが、私の記憶に間違いがなければ、01年の2月4日だったはずですが、そこに至るまでに、何度か、白川氏とふたりで会って茶を飲みながら、真剣に「新党構想」を語り合ったのを、今でも懐かしく思い出します。
そのとき、二人の共通の認識として一致していたのは、こういうことでした。
「もう、自民党政権ではダメである。来るところまで来ている。それになり代わる新しい政治勢力をここで作らなければならない」
「とりわけ、公明党と連立を組んだことで、それまで自民党が持っていた寛容さだと
か、リベラリズムがまったく消滅してしまった。これは重要な問題である。曲がりなりにも、戦後の自民党が、有権者の中でも良質な層の支持を受けてきたのは、そうしたリベラルさがあったからだ。それを我々が引き継いで、白川新党の核にしなければならない」
確かに、白川新党は01年の参院比例区で、わずか、48万票足らずしか取れなくて、結果としては惨敗でした。
それでも、少なくとも、我々はこの「新党ムーブメント」の中で、「自由にものが言え、表現することができ、そこから日本の活力ある社会を作っていく」という気高い理想と志だけは、誰よりも高く、そして、強く持っていたのは間違いない。
しかし、結果として、「小泉の登場」といういかんともしがたいファクターがあった
にせよ、敗北したという事実は、少なくとも、私の心に大きな傷を背負うことになりました。その意味では、白川氏もBBSを閉鎖する一方、ウェブサイトの更新もなくなって、山寺に“修行”に籠もった気持ちも、非常によくわかるのです。
私と白川氏の出会いは、私が例の創価学会3部作の一発目である、『システムとしての創価学会=公明党』を上梓した99年秋に遡ります。
当時の私は、今よりもさらにもっと無名でしたが、そんな人間に対して、永田町でいちばん早くコンタクトを求めてきたのが、白川氏でした。共産党より早かったです。
それから、例の「白川新党ムーブメント」も含めて、彼をいろいろと意見交換をする機会に恵まれるのですが、私が白川氏からいちばん大きな示唆を受けたのが、「人間の根源的な自由」ということに対する、彼の姿勢と考え方でした。
人間にとって、自由とは、どういう存在であるのか、そこから、「思想としてのリベラリズム」とは何であるのか。リベラルな人間として生きるというのは、いったいどういうことなのか。もし、彼と出会っていなければ、そういう根本的な問い掛けを自らに課すこともなかったのではないかと思います。
考えてみると、永田町にいた人間の中で、彼ほどに「人間の自由」ということを突き詰めて考えていたのは、いないように思います。
その意味では、そういう政治家が、例の自・公路線が確立され、強固なものとなっていくなかで、権力の中枢から排除されていったのは、もちろん、これは最大限の皮肉を込めてですが、ある種、それは“歴史の必然”だったような気がします。逆に言えば、彼のような政治家が、永田町からはじかれていったがゆえに、自・公政権がさらにいっそう、全体主義化の色彩を濃くしていったといえると思います。
いま、盛んに竹中平蔵あたり言っている「新自由主義」なるものとは、要は、「経営者の自由」ということだけです。それは、根源的な自由からはより遠いどころか、自由の本質そのものを侵害してしまう恐れすらある、といえると思います。
それと、もう一つ、私が彼を高く評価しているのが、その「政局遂行能力」です。
たぶん、これは白川氏のコアな支持者でもあまり窺い知らない部分ではないかと思うのですが、93年7月の総選挙で自民党が政権与党の座を滑り落ちた後、約8カ月の「在野期間」を経て、「自・社・さ」というウルトラCで再び、与党に戻るわけですが、そこに至る過程で、最大のネックは非自民連立政権の細川首相でした。
つまり、あのとき、後の小泉内閣を彷彿とさせる、80%を超える細川内閣の化け物的高支持率に、当時の自民党議員の大半は「戦意喪失状態」に追い込まれていたのです
が、そこで、自民党が政権に再び戻るには、「その中核にいる細川のクビを取るしかない」というのが、白川氏の基本認識でした。
で、東京佐川急便からの1億円借入問題で、細川を国怪の予算委で徹底的に追い詰めたのが、94年3月のことですが、そのとき、細川を決定的に追い込む答弁を引き出したのが、じつは白川氏でした。
しかし、当時、細川内閣の支持率はなお7割を超え、さらに自民党にとって分が悪いことに、ゼネコン汚職で、元建設大臣の中村喜四郎が、東京地検特捜部に逮捕されていた直後だったのです。
本来なら、そういった「自民党逆風吹きまくり状態」であったにも関わらず、自民党はそれに怯むどころか、逆に攻撃のターゲットを「本丸」である細川一本に絞り、「佐川とカネ」の関係をこれでもか、というくらいに攻めたわけです。その結果、細川が退陣表明をするのは、翌4月に入って、間もなくのことです。
当時、私は毎日新聞の政治部で、官邸で細川番をやっていたので、よく覚えていますが、94年の3月に入って、自民党が細川の“個人攻撃”を始めてから、それまでは気さくに番記者との雑談に応じていた細川が、急に無口になり、不機嫌になっていったのを、覚えています。
確か、白川氏がその国怪質問に立つ前後だったと思いますが、私が国怪で細川首相がその長い廊下を歩く間、「番」として、一問一答を取るためにぶら下がったのですが、どんな質問をしても、彼は口を一文字に結んだまま、一言も話さない。当時、私は「いったい、どうしたんだ?」と思いましたが、そのことを白川氏に話したとき、こう言ってました。
「そんな新聞や雑誌で既に出ている話で追及したって、当事者は痛くも痒くもないんだ(笑)。相手を追い込むには、自分の足で調べてそこで出てきたネタをぶつけなければ、ダメなんだ。オレは秘書を細川の別荘がある湯河原まで行かせて、そこの登記簿を上げさせて、東京佐川との関係を追及したんだ。結局、あの問題の根幹は、佐川側からの資金提供によって、細川に贈与税の問題が派生するんだ。つまり、脱税だ。これは刑法に触れる大問題だ。そこをオレは突いたから、細川のクビを取ることができたんだ」
私が政治家として白川氏を高く評価する理由に、このように「政策」と「政局」の双方を駆使できることです。
政治家が崇高な志と理想を持っていなければならないのは当然ですが、しかし、あの魑魅魍魎が跋扈し、そして、日本で最も汚染されている(笑)、あの永田町を生き抜くには、「ケンカ」、すなわち、「政局遂行能力」が必要不可欠ですが、双方、兼ね備えている政治家はほとんどいない。というより、敢えて名指しするとすれば、野中広務や池田大作のように、「あるのは権謀術数のみ」という「政治屋」ばかりがデカイ面をして、ブイブイ言わせてきた。現在の永田町は、そのなれの果てです。
それゆえに、私の中では、何とかして、氏に国政にもう一度、復帰してもらいたいという思いがあって、時折、メールでそのことを書き綴って送ってみたりもしたのですが、返事はありませんでした。
それから、03年秋の総選挙も過ぎ、「その後、白川氏もどうしているのだろうか」と思っていた矢先に、去年の秋ですが、ひょっこり、彼からメールが届いて、東京で会うことになったのです。
確か、会ったのは中越地震の直前だったので、手帳を見ると、10月18日のことです。
渋谷の井の頭線のマークランドシティーで待ち合わせ、近くの居酒屋で、ビールを飲みながら、積もる話に花を咲かせました。
白川氏と会って話すのは、じつに久しぶりだったのですが、思ったより、元気そうなのに安心し、自・公体制の現状に、今の民主党の動きなどを一通り話をした後、白川氏に対して、私が「今後、身の振り方をどうするのか?」と尋ねたのです。
実は、そのとき、私としては、国政に戻ってもらいたいという思いがあって、「もし、新潟県内から、衆院に出るとすれば、新潟2区しかないのではないか。であれば、そこで後援会を立ち上げて、選挙区回りを始めた方がいいのではないか」ということを言いました。
というのは、新潟の1、4区は民主党公認が議席を取って、5区は真紀子、3区は自民の稲葉大和だが、地盤は下越と、元の地盤よりこれまでより遠くなるので、衆院で出るとすれば、元の6区か、それとも、白川氏の元の地盤とはまだつながりがあって、自民党候補の集票力の弱い2区のどちらかですが、結局、6区は筒井が民主党の公認でいる以上、出るとしたら、新潟2区しかないだろう、というのが私の考えでした。
それに対して、白川氏は頭を横に振り、こう言いました。
「オレがもっと若くて、30代とかだったら、そういう選択肢もありえたし、また、民主党が本当に政権交代を目指すのであれば、そういう形で2区からの公認で出るのもいいだろう。でも、この前(03年秋)の総選挙でわかるじゃないか。民主党はオレを必要としていないということだろ(苦笑)。
選挙でいちばん何にエネルギーを使うかというと、候補者調整なんだ。オレも96年の総選挙で加藤紘一の下で、総務局長として選挙を仕切ったが、何がいちばん大変だったかというと、候補者調整なんだ。『オレが、オレが』という強者どもの間に入って、誰を立て、誰に下りてもらうか、その間に入って、話をまとめるんだ。敵に勝つために、それをちゃんとやるのが執行部の仕事なんだ。ところが、あのとき、菅も小沢も岡田も一切、オレと真紀子の調整に動かなかった。そんなバカな話があるか」
白川氏が、私に話したところによれば、このときの選挙資金の負債を自分ですべて背負い込み、上越市の自宅を売却して、それに充てたとのことです。政治家の最終評価は、「何をなしたか」ということによってなされます。
蛇足になりますが、私は総理大臣就任以降の小泉純一郎に対して、何ひとつ、評価すべきことを見いだせないのですが、それでもたった一つ、彼を「有言実行の人間」と評価する点があって、同じ総選挙前に、大長老・中曾根康弘のクビに鈴をつけ、「議員引退」に持ち込んだことです。
あのとき、世間の反応は、「小泉のジジイいじめ」とものすごいバッシングを浴びせたが、「選挙」という、政党にとっては生きるか死ぬかの最大イベントにおいて、小泉はやるべきことをちゃんとやった。
しかし、かたや民主党は、候補者調整に動くどころか、何もせずにほったらかしにして、白川勝彦を見殺しにした。これがすべてでしょう。
もう一つ、蛇足が続きますが、つい、最近、「イラク派兵反対」を進言して、事実上、外務省をクビになった元レバノン大使の天木直人氏に取材する機会があり、その際、いろんな雑談に及んだのですが、天木氏も当初は、民主党への政権交代ということにかなり期待を抱いていたとのですが、「やっぱり、あそこの政党に過大な期待を持つのは禁物だよ」という話になり、私も「ふむ、なるほど」と納得するものがありました。
んで、それは、今国怪の「政治とカネ」を巡る民主党の腰砕けぶりを見れば、イッパツです。
そういうムードを反映してか、最近の週刊現代かポストか忘れましたが、岡田がじつは自民党との大連立も選択肢に考えているというような観測記事が出てて、私はそれが「事実無根」であることを祈りたいですが(笑)、まあ、そういう情報がリークされること自体、「火のないところに煙は立たんだろう」という憶測を、一般の人は抱きますが。
民主党がダメというか、バカなのは、なぜ、本丸(=小泉純一郎&池田大作)を攻め
ないのか。全てはそれに尽きると思います。
話を戻しますと、それで白川氏との話のなかで、「他言無用のこと」と前置きしたうえで、「じつは、合併で新しくできる十日町市長選に出てくれという話が、この(=04年)春くらいから、オレをずうっと支持してきてくれてた地元の青年団から来てて、だいぶ、迷っていたのだが、出ることに決めた」と言いました。
それは、白川氏が昨年12月中旬に記者会見で正式に発表する約2カ月も前のことでしたが、見た感じでは、既にハラは決まって、その表情もサバサバとしたものでした。
十日町市というのは、もともと白川氏が生まれ育ったところで、彼は新潟県立十日町高校から、東大法学部に進み、わずか、9カ月間の受験勉強で司法試験に合格したという過去を持つのです(笑)。
それを聞いて、一瞬、私は国政から彼を失うのは惜しいとは、思いましたが、そうやって生まれ故郷から、それまでの政治家として積み上げてきた実績をまっとうに評価され、新しく生まれる自治体の首長として、「白川、帰ってこいコール」が起こったことに、氏は意気に感じている様子でした。
それを聞いて、ふと、私が思い浮かんだことは、「元自治大臣」の肩書を持つ、市区町村長は、おそらく「史上初めて」ではないか、というとでした(笑)。そう考えると、結構、オモロク感じてきました。
確かに、これからのトレンドはまさに「地方の時代」です。
地方のことは、地方が自分で考えて、自分たちで決める、という時代になってきています。
しかし、そうはいっても、予算配分権を持ち、さらにさまざまな情報を持っているのは、霞が関にある中央省庁です。そうした政府機関と対等にやり合って、予算をぶんどったり、さまざまな果実をもぎとるには、白川氏のように永田町で活動して、権力がどういうふうに行使され、情報がどういうふうに回っていくのかを熟知している人間が、自治体の首長として必要になってきている気がします。
その意味では、白川氏であれば、新潟県知事はもちろん、各省庁の局長、事務次官、大臣、さらには小泉に対しても、臆せずにモノを言い、「地方の言い分」をはっきりと言うことができます。そして、官僚連中の小賢しい“情報操作”に対しても、きちんと対処できる能力を彼は持っていますので、これからの「地方の時代」に彼のようなキャリアと実績を持つ人間が、どんどん出てきていいと思います。
「地方の時代」というからには、本来、権限もカネもどんどん自治体レベルに下ろしていって、最終的には中央政府は、自治体同士の利害打算を調整する「行事役」としての機能だけ残せばいいと思っています。
そうやって、人材が一方的に東京に一極集中するのではなく、地方を出た人が郷里に戻ってきたり、また、まったく縁のない人でも、そこに魅力を感じて移住してくるような地域を、みんなが汗を流してつくっていけばいいと思います。
そこで、さきほど、十日町市の選管に電話を入れて、今度の新市長選の日程を確認したら(市議選とのダブルということですが)、4月24日告示、5月1日投票とのことです。
聞くところによると、今度の新十日町市長選は、現職の旧十日町市長をはじめとして、候補者の乱立が予想され、かなりの激戦となるとのことです。知名度が高いとはいえ、白川氏も決して、楽観はできないと思います。
それゆえ、何とか、この厳しいタタカイを勝ち抜き、5月1日の晩には、晴れて彼が新十日町市の初代市長となることを、心より期待したいと思います。
そこで、私は改めて白川氏に熱いエールを送りたいと思います。
ガンバレ、白川勝彦! まともな有権者はちゃんと見守り、そして応援してるぞ。この死にもの狂いの大激戦を、絶対に勝ち上がって来い! オレたちは待っているぞ!