学会おたく注目!池田大作は自分の跡継ぎに、長男・博正、三男・尊弘ではなく、 |
ここんとこ、信濃町というより、池田大センセイを巡る雑誌報道に、何となく、春めいた風向きの変化を感じます(笑)。
というのは、3月7日発売の週刊ポストが、学会を脱会した杉田かおるの手記を小学館が出すことに合わせて、その関連記事を載せる一方、3月10日発売の週刊文春が、ぬあんと、いよいよ「信濃町大連載」の第1弾として、「学会員芸能人」の特集を組みました。
聖教新聞や公明新聞の印刷を抱え込んでいて、そうしたソロバン計算から池田大センセイに対しては徹底した「見ざる、言わざる、聞かざる」を決め込んでいる、どうしようもない大新聞は置いといて、ここんところ申しますか、正確には昨年秋に、NTTドコモ事件がハジけたあたりからでしょうか。出版社系の週刊誌各誌が、ゾロゾロと信濃町関連の記事を載せるようになりました。
これまで、特に自・自・公路線以降は孤軍奮闘の感があった週刊新潮が、昨年秋のNTTドコモ事件のブレイクを機に、嘉村英二クンにケータイの通話記録をアクセスされていた乙骨正生氏の「スクープ手記」を載せたのを皮切りに、それに対抗する形で週刊現代が乙骨氏と“セット”でアクセスされていた女優の福原由紀子さんの「スクープ手記」で切り返しました。
このあたりから、「週刊新潮VS週刊現代」のバトルが勃発した感がありましたが、これにいよいよ、週刊ポストに週刊文春も参戦ということになると、我々、ヒマな学会おたくにとっては、毎週、月曜日と木曜日の朝にコンビニに行くのが、楽しみになるというものです(笑)。
んで、週刊誌がこうしてネタとして、取り上げやすくなったのは、これまた昨年秋のNTTドコモ事件がハジけたあたりから、池田大センセイが力を入れて取り組んで来られている一連の「芸能人シフト」にあると思います。
まあ、もともと、信濃町は「民音」を使って、こうした芸能人の公演や活動をサポートし、チケットを学会員に買わせて、彼らの食い扶持を与える一方で、「広告塔」の役割も担わせ、さらには選挙用の「F取り」の前段階にあたる「シンパ作り」の手段の一つとして、「じゃあ、一緒にマチャミや長井秀和が出ている民音主催の公演を見に行きましょうよ」と誘って、巷に溢れている「学会アレルギー」を取り除こうとするわけです。
ただ、こうした「芸能人戦略」というのも、じつは「両刃の剣」で、確かにマチャミのように、一方でそういった世の中にあるケーカイ感を取ってくれるキャラもいますが、しかし、こういう芸能ネタというのは、広くみんなの関心があるため、とりわけ、週刊誌の恰好のエジキになります。
つまり、「政教分離」だとか、「日蓮正宗との抗争」という堅いネタだと、一般の人も「何が何だかわかんなーい! 超ムズカシーイ話はいやー!」と関心が持ちにくいですが、それがどっこい、超ミーハーな私のやうに(笑)、テーマがフツーのパンピーも関心を抱きやすい芸能人問題になってしまうと、「石原さとみ」に「クリスタル・ケイ」までもが学会員であるとなると、「えーっ、ほんとに!?」と素朴にビックリしてしまうのですね。
そこで、本格的に本題に入っていく前に、では、なぜ、大センセイがこうした「学会員芸能人カミングアウト戦略」に突き進んだのかについて、信濃町中枢筋のZ氏は私にこう語っています。
「要は、これは福原(由紀子さん。以下、コメントの部分では敬称略)対策。マルPは、今度のNTTドコモ事件でカミングアウトして、信濃町を批判した彼女をどうしても許せない。絶対に潰す。だから、福原を芸能界で干すために、こうやって芸能界では学会員が大勢ハバを効かせているということを誇示することで、彼女を追い込んでいくという目的があるんですよ。それからでしょ。聖教新聞で、これまでにも増して、『間違いなーい』の長井秀和とか、芸能人連中が大きく取り上げられるようになったのは(笑)」
いやはや、何とも、池田大センセイらしい、超コワイ演歌エレジー的怨念ワールドの世界ですが(笑)、逆に行動の根っこにこういう何というのか、「肉感」というか、「身体性」が存在していた方が、人間の行動原理としてはチョーわかりやすですよね。
私も含めて、人間とは「感情の動物」とも言われます。
確かに、人間が行動を起こす根底に、形而上的な「理性」の部分もあるとは思いますが、しかし、やっぱり、形而下、すなわち、下半身に属する「感情」の部分はかなり大きいと思います。ですから、そういうところから、人間存在を見ていくことは大事だと思いますし、だからこそ、21世紀を迎えた現代でも、「文学」というジャンルが消えずに存在しているのではないでしょうか。
そこで、私はこのほど、ある「ブツ」を“スクープ入手”しました。 それは、「池田城久君追悼文集・若桜」というタイトルの非売本のコピーで、発行者は八王子の創価大学創友会館内の若桜編集委員会で、発行年月日は大センセイの二男・城久の死からちょうど1周忌にあたる1985年10月3日。印刷はこれまた学会系のヒサゴ印刷です。
大センセイとオクサマである香峯子(本名・かね)夫人の間には、3人の息子がいて、上から博正、城久、尊弘であるというのは、ここにアクセスしてる超ヒマな学会おたくの方々は、みんな知ってることと思います。
さらに、この3人の息子のうち、二男の城久は1984年10月3日、胃穿孔による吐血で、わずか29歳の若さで亡くなっているというのも、皆さん、ご存じのことと思いますので、それを前提に話を進めます。
で、大センセイの元側近たちはもとより、現信濃町中枢の大幹部らの話を総合すると、大センセイは3人いる息子のうち、じつは二男の城久をこよなく最も愛していたというのです。これはほんと、口を揃えて言います。
確かに、このほど刊行されたオクサマ(=香峯子夫人)の「香峯子抄」にも、3人の息子の写真が掲載されていますが、やっぱり、中でも二男の城久は体型といい、醸しだす雰囲気といい、大センセイそっくりなのです。ほんと、「大センセイの生まれ変わり」と言ってもいいほどです。
実際、大センセイをよく知る元側近は、こう私に語っています。 「いや、ほんとに城久君は池田そっくりで、実際、池田自身も彼のことを一番に思っていた。確かに城久君は体型とか、雰囲気だけでなくて、シャープな思考、カンのよさも池田譲りで、それでいて明るくて気さくて、われわれ幹部職員のウケもよかった。すごく、明るくあっけらかんな雰囲気で、跡継ぎは長男の博正ではなく、二男の城久君だと思ってたし、実際、池田自身もそう考えていたと思う」
ところが、この城久の突然死に、大センセイはもちろんのこと、周りもビックリします。
んで、「城久の死」については、当時からいろんなことが囁かれていて、特にその直後にジャーナリストの内藤国夫が月刊誌『諸君!』の1984年12月号に書いた「月報・創価学会問題」の中には、城久の妻が第一庶務の出身で、城久の創価大学時代の旧友の間に広がっていた噂として、「もしかして、あれは、創立者お得意の“お手付き女性のお下げ渡し”だったのではないか。それによって、城久氏の忠誠度、後継者としての適任ぶりを試していたのではないか。そうなると、結婚七カ月後に生まれた長男の父親は、いったいどっちなるのかな」という話がありました。
んで、この内藤レポートによれば、城久もその話を耳にしては、かなり神経質になり、時には荒れ模様になっていたようで、こうしたストレスが急死と大いに関連があるのではないかと、最後を結んでいます。
ちなみに、城久はその夫人との間には、大センセイからすると、「孫」にあたる長男、さらにその下の長女と、2人の子供がいますが、それこそ、その「孫」にあたる城久の長男が、本当に自分の子であるかどうかはDNAによる親子鑑定をしなければわからないので、もちろん、この「噂話」の真偽のほどはわかりません(ちなみに、最近のDNA鑑定では、父子関係の存在の有無はほぼ100%の確率で判明します)。
ですから、大センセイにしてみると、「孫」であり、もしかして、ひょっとしたら、“四男”であるかもしれない「城久の長男」(私の取材不足で、彼の名前はまだ掴めていません。ヒマな皆さん、だうもスミマセン)ということですが、内部から漏れ伝わって来る話を聞く限りでは、大センセイは、城久の長男であるこの「孫」を、「溺愛」している、というのです。
繰り返しますが、私の掴んでいる情報では、大センセイは、その孫を通常に「可愛がっている」とか、「愛着を持っている」といった生易しいレベルではありません。「メロメロに溺愛している」というくらい、究極のところにその感情は達している、というのです(驚)。
繰り返しになりますが、その城久の妻が、大センセイの“お下げ渡し”で、その長男が本当に城久の子であるかどうかは、もちろん、私の手元にはDNA鑑定の結果がないので、全くわかりません。
しかし、その“お下げ渡し”が「真実」であってもなくても、大センセイが城久の才能を高く評価し、「池田家の後継者に」と考えていたのはたぶん、間違いないでしょうから、自らの「生き写し」ともいえる城久の死に対して、大センセイもひとりの肉親として、非常に深い悲しみの底にあったことは、じつはその「若桜」に寄せている、大センセイの和歌にも、はっきりと現れているのです。
「安らかな いまはの 笑顔の 知らせきき 父はたたえむ 若き王者と」
これは城久が亡くなった1984年10月3日の晩に関西文化記念室で作ったということになっている和歌で、さらに翌日の通夜の日に城久の自宅で作ったという和歌は、こうです。
「大難に 父を守りし この数年 凱歌の 君を 永遠に 忘れじ」
この2つの和歌はいずれも、たった「五七五七七」の三十一文字にすぎませんが、逆にこれだけ簡潔に紡ぎ出されているコトバの中に、私は大センセイが二男の城久を「池田家」の後継に考えていたということを、直観的に感じ取ります。
確かに、「香峯子抄」を読むと、表面的にはオクサマも3人の息子を“公平に”愛情を持っているような記述になっていますが、しかし、オクサマは大センセイと違って、長男の博正にいちばん愛着を持っているのは、すぐにわかります。
それは、冒頭に、博正が寄せている一文を読めば、イッパツですし、何より、幼い頃の写真を見ると、博正はほんと、オクサマにソックリなのです。
それは、博正は慶応大学を出たのち、女子校(=関西にある創価女子高校、現在の関西創価高校)で教鞭を取っていたという経歴を見てもわかる通り、学究肌というのか、その何ともやんごとない雰囲気が、かつては白木家の「お嬢さま」であったオクサマの血を多く受け継いでいるのは、よくわかります。その意味では、ひとことで言うと、博正は「おぼっちゃま」ということでしょうか。
で、ここからは私の「スクープ情報」ですが、昨年(04年)12月中旬、東京は八王子で創価大学の首脳が集まり、「創立者」(=大センセイ)も出席して、大会議が開かれたとのことですが、ぬあんと、その場に、大センセイが溺愛している「孫」、すなわち、「城久の長男」が出席していたというのです。
ちなみに、城久の結婚は1979年6月30日ですので、計算からすると、大センセイの溺愛する「孫」は、1980年の生まれということになりますので、今年、25歳ということになると思います。
しかし、こうしたチョー重要な会合の場に、長男の博正、三男の尊弘と同じレベルの扱いで、大センセイの「孫」が出席していることの意味を、軽く捉えてはならないと思います。
城久は、成蹊中・高校を経て、1973年4月に創価大学法学部に「3期生」として入学しますが、実は、この創価大学(創価学園)の同じ「3期生」を中心とする城久の“ご学友”に対して、大センセイは特に思い入れが激しいというのです。
もちろん、創価学園、創価大学が、例の「総体革命」の一環として、大センセイを「お守りする」ために、官庁はもとより、永田町や裁判所、そして、最近は通話記録などの個人データを大量に蓄積しているIT関連企業に人材を投入して、最終的には「日本国を乗っ取る」という、フツーの人間が見たら、正気の沙汰とは到底思えないことを、大センセイはやらかしています。
が、その根底にあるのは、自分とウリ二つの「二男・城久」への思い、そして、その城久が残した一粒種である「孫」への溺愛ではないかと思います。何年か前に流行った大泉逸郎の「孫」ではありませんが、おじいちゃんにとって、そもそも孫とは可愛いもんです。
で、城久と同じ「3期生」を見ていくと、去年の8月人事で、原田稔の後釜に座る形で、「総東京総合長」に昇格した正木正明がいますし、城久の2年上の「1期生」には、去年秋の内閣改造で国交大臣に入閣した北側一雄がいますし、去年の4月には、大学運営のトップである理事長に同じ1期生の田代康則、副学長にも同く1期生の馬場善久が就任しています。
で、その追悼文集「若桜」を見ると、ちゃんと、正木、田代、馬場の3人は一文を寄せています。つまり、「城久のご学友」というレッテルが貼られているということで、「創価学園・創価大学出身人脈重視」という最近の傾向とピッタシ一致しているのです。
んで、この「若桜」に追悼文を寄せている連中を見ていきますと、忍田和彦(1期)、羽吹好史(1期)、松村光晃(2期)、寺西宏友(4期)、といった信濃町、八王子の大幹部連中がゾロゾロと名前を連ねているのです。
さらには、ちょうどうまい理屈がつけやすいことに、NTTドコモ事件の“現場責任者”である例の元総合青年部長のSクンが早稲田大出身(ついでにいうと、彼は創価学園の出身でもない)ということもあって、彼の監督不行き届きによって、「長城会」という創価大のボーリャク組織が明るみになり、ついには2月24日発売の週刊新潮(3月3日号)で、乙骨氏にスクープ手記を書かれてしまって、大センセイの顔にまたまた泥を塗ってしまったわけですから(笑)、当面の間、Sクンを謹慎させるにも、いいタイミングだったわけです。
(#そもそも、こういったボーリャク組織なんていうのは、内部的にも対外的にも「存在しない」ことになっているんやから、その存在自体が表沙汰にされた時点で、そもそも、そのボーリャク活動は大失敗なんや。だから、Sクンは当面というか、下手をすると、このままずうーっと表には出せんし、だからこそ、昨年8月に、通常人事に混ぜて、こっそりと「総合青年部長」のポストを消去するというセコイことを大センセイもやっとるんや。もっといえば、Sクンを外すということがまず先にありきで、それを目くらまししてゴマカスために、ちょうど、参院選挙後でもあったし、「大人事異動」の形にしたんだともいえるかもしれんな)
そこで、八王子内部の大ボーリャク組織である「長城会」の存在を、本サイトで地球上で初めてスッパ抜いたのは私ですが(笑)、実は、この乙骨氏の手記では、学会おたく的にはもの凄い「大スクープ」の部分が含まれているのです。
それは、NTTドコモ事件の末端の実行犯である「嘉村英二」と、田島稔のオンナ絡みの件で、嘉村にケータイ記録にアクセスするよう、指示を出していた元全国青年副部長の「根津丈伸」について、この乙骨氏の手記では、サクッと「根津、嘉村が長城会のメンバーだった可能性」に触れているのです。
というのは、この乙骨氏の手記が出るにあたって、知り合いの週刊新潮の記者から連絡があり、「根津、嘉村が長城会のメンバーだったと聞いていますか?」と尋ねられたのです。「どうも、根津と嘉村は長城会に所属していたようだ」というのです。
特に信濃町の学会本部の就職にあたっては、創価大学学生課の副課長をしていた根津の推薦が大きなウェートを占めていたとのことで、根津が創価大の学生たちでつくる長城会の活動にも、かなりの影響力があった形跡が窺えるのです。
ただ、根津と嘉村が実際に長城会に所属していたかどうかについては、私自身はウラを取っていなかったので、「彼らが長城会のメンバーであったかどうかは、残念ながら私にはわからない」としながらも、「しかし、仮に彼らが長城会のメンバーあっても、一向におかしくないどころか、逆にその方がまったく辻褄が合う」と答えていたのです。
で、週刊新潮の記者は、「長城会」に入るようスカウトされたという学生の証言も取っていて、長城会の規模として、30人から40人程度のメンツがいるらしいとのネタを教えてくれました。
んで、「長城会」というネットワークが卒業後もついて回っていて、そこの人脈から、どうも「嘉村の犯行」につながっているようなのです。
もっと言えば、嘉村は最初から、「池田大センセイをお守りするために」、乙骨氏をはじめとする「大センセイ批判者」たちのケータイ記録を盗み見するために、例の「総体革命」の一環として、大センセイの指令によって、そもそもNTTドコモに入社させられたのでは、と見るほうが自然のような気がします(笑)。
そこで、昨年末の本サイトで、私がこの「長城会」の存在を地球上で初めてスクープした後、じつは、学会最中枢筋から「マルPが、そのことで激しく動揺している」とのチョー極秘情報がもたらされていたのです。
しかし、そのときは、あくまで、長城会は、「大学内での警備」を表向きとしつつも、実際のところは、尾行やイヤガラセといったボーリャク活動一般ををやってるだけであって、刑事事件として立件された「NTTドコモ」との個別具体的な、直接の繋がりはまったく見えていなかったこともあって、「たかが長城会ごときで、何で、そんなに大センセイは動揺すんだろー」と訝しく思っていたのです。
ところが、ぬあんと、根津も嘉村もこの長城会の出身で、んで、2人のカンケイが、この「長城会人脈」だった可能性がある、という話をその週刊新潮の記者から聞かされたとき、私は「なるほど!」と膝を叩き、この「長城会」をオモテに出されたことに、大センセイがどうして激しく動揺されたか、わかったような気がしました。
んで、さらには、最近になって、またまた池田大センセイの「重病説」が流れています。
というのは、聖教新聞の動静記事によりますと、大センセイが最後にナマのお姿を紙面で晒したのは、2月23日の信濃町の創価文化会館で開かれた全国最高協議会が最後で、それ以降、大センセイの「ナマ写真」が、紙面からプツリと消えているというのです。
これから、創価学園&創価大学で卒業式、さらには、4月に入ると、新年度の入学式がありますので、その場でも、もし、「創立者」(=大センセイ)がご出席あそばされないという事態になりますと、これは再びかなり重い病気で倒れられた可能性が濃厚、とみていいでしょう。
しかし、動静記事で大センセイの存在が最後に確認された2月23日というのは、乙骨氏の手記が週刊新潮に掲載される前日です。
まあ、信濃町が事前にゲラ刷りを入手していた可能性はあるにしても、大センセイとしても、「長城会」の存在が、超ヒマ人しかアクセスしない、私の本サイトで書かれるのはまだ許容範囲としても、週刊新潮のような何十万部もの部数を発行する大マスコミに書かれてしまったことに、いたく、ショックを受けられ、カゼでもこじらせて寝込んでしまわれたのでせうか(笑)。
まあ、嘉村英二坊やを最末端とする、このNTTドコモの不正アクセス事件(=乙骨氏&福原さんルート)に関しては、武富士の武井保雄会長と同様、既にこの“古川裁判所”では、大センセイに対して「有罪判決」が出ていますが(笑)、まあ、それはともかく、本題に戻ると、今後は、大センセイの二男である「城久」の長男、すなわち、大センセイの「孫」に注目したいと思います。
んで、大センセイ(=池田家)の「後継者」については、確かに現時点では「長男・博正」というふうに“既成事実化”されてはいますが、大センセイ自身が栄えある、例の「第3代会長」に就任されたのが32歳です。
ですから、別に2人の息子(=博正、尊弘)を差し置いて、ここで一挙に「孫」に行ってしまっても、全然、おかしくないとは思いますが。
(#もっとも、オクサマは博正を寵愛しとるようだから、もし、大センセイが先にパッタリと病気で倒れてしまうという事態になってしまうと、残念ながら、「孫後継」という目は消えてなくなってはしまうがな。)