三井環(元大阪高検公安部長)氏への「裏金公表阻止を狙った口封じ逮捕劇=冤罪事件」を徹底的に弾劾する |
#で、今朝(=5・11)の朝日が、「6分で終わった死刑シッコー」ってことで、この「5・1」に、亜米利加はオクラホマ州であった、連続強盗サツジンで死刑が確定した齢57の男の死刑シッコーの様子を、ルポにしておったなあ。向こうの死刑シッコーって、「薬物注射の投与」で、それらの様子は、地元のキシャ倶楽部とかにも全部、公開し、そもそも、死刑シッコーの期日も、事前に本人はもとより、関係者にも、ちゃんと伝えられるんだなあ。
で、ヒガイシャはもとより、地元のキシャ倶楽部にも、ほとんど場合、その場に立ち会うこともOKなんだな。シッコーの期日も含めて、徹底的に隠蔽シマくるニッポンとは、大違いだよなあ。シッコー用に使う、担架の写真も載せてあったが、見たカンジ、アレは「ベッド」だよなあ。薬物注射だと、そんなに苦しまずに、眠るように死ねるんかいなあ。
#「上」の続きだが、いやあ、ニッポンは、刑法の第11条の第1項で、「死刑は監獄内で絞首してシッコーする」って、ちゃんと書いてあるんで、現行法では、「首吊り」以外に選択肢がねえんだよなあ。ワシは、死刑廃止ロンジャなんだが、でも、ヤルにしても、首吊り刑ってのは、野蛮極まりねえよなあ。やっぱ、まだ、亜米利加の方が文明国だよなあ(笑)
ま、今、消費税増税モンダイで、それどころぢゃねえが、まず、死刑廃止の前にさ、せめて、死刑シッコーの方法ぐらい、変えようよ。この薬物注射方式は、検討に値するよなあ。だから、刑法の一部改正アンで、その第11条の第1項を「死刑の方法は、追って政令によって決める」に書き換えれば、それでオシマイだからなあ。
#その亀谷直人の獄中手記だが、在阪のフリーのブンヤの尾塚野形のオッサンに、いろいろと手紙を書いておる中で、「02・11・25」における、東京は八重洲の富士屋ホテル前路上における、鶴城丈二の射殺ジケンのことも、かなり触れておるってんだな。アレは、確かに、結果的には、亀谷は「塀の中に逃げ込んだ」っていうカタチにはなってしもうたが、あのとき、亀谷は「刺し違える覚悟」っていうより、鶴城らをヤッた後、「自分も死ぬつもり」でおったようなんだな。
それは、どういうことかというと、その「2億円の件(=桑田兼吉保釈コーサク)」において、1回目の保釈請求が失敗に終わり、いろいろとスッタモンダの末、「2回目」を請求することになっておって、その可否のケッテイがサイバン所から出てくるのが、その「02・11・25」だったんだよな。亀谷は、鶴城らと会うため、その直前、日本橋のセンターホテル東京に2泊の予定でチェック・インし、デポジットも済ませておったってんだな。
で、そのとき、亀谷は持っていたチャカに、タマを6発装填し、あと、タマ3発については、ケータイ電話2本と一緒に、その宿泊先のホテルのベッドの枕の下に隠しておいたってんだよな。要するに、会えば、「で、結論はどうなったんだ?」っていうことから、「戦争になる」ってのは、わかりきっておったからな。相手もコロシて、運良くホテルまで逃れて来れた暁には、自分も残りのタマを使うて、アタマをブチ抜いて昇天する、と。そういうふうにハラを括っておったようなんだな。
#「上」の続きで、その「02・11・25」だが、当時、桑田兼吉の組長秘書だった繁田誠治は憔悴のあまり、寝込んでしまい、上京を断念し、それで、鶴城丈二だけが亀谷直人と会うことになったようだ。もっとも、繁田が上京しておったら、その場で、亀谷は蜂の巣状態にされ、先に昇天しておっただろうが。
で、その東京は八重洲の富士屋ホテルの喫茶室で、待ち合わせた後、口火を切ったのは、鶴城の方だった。ただ、生憎、そのときは雨で、ホテルの中も人で溢れかえっておったため、鶴城は「外に出ようか」と水を向け、待たせていたクルマに向かった。そして、右のドアを開けて、乗り込もうとした際、「こらあ、山健をナメとんのかい!」と啖呵を切ったため、左側から乗ろうとしておった亀谷は、とっさに持っていたチャカをハジいたとのことだ。撃った4発はすべて命中し、鶴城はたちまち崩れ落ちた。このとき、防御しようとして突き出した指が一本、吹っ飛んでしもうとるんだそうだ。
そのとき、運転手は塑像のように動かなかったが、亀谷がクルマから出ると、「何すんだよう」と襲いかかってきたらしい。それで、亀谷は残る2発を運転手の左脇から腹を目がけて発射した。腹は案外、致命傷にはならんのだそうだ。ま、このへんの詳しいくだりは、尾塚野形のオッサンが、いずれ、『紙のバクダン』で「字」にするそうだ。で、この亀チャンに対して、ヤクザ筋の間では、「エエ根性しとるやないか!」と、評価する向きが出とるらしいで(笑)
#「(IT)ジャーナリスト」を自称しておる、ワシと88年毎日シンブン入社同期の佐々木俊尚が、イケダモン大先生んとこのサンブン(=第三文明)で、ソーシャルメディアがどうたらこうたらと書いて、小遣いをせしめておる鼻先で、ワシは、『フォーラム21』最新号(12年5月号)の特集「大衆の前から姿を消して満2年━━混迷の度深める創価学会」ん中で、「『主不在の2年』を裏付ける信濃町の混迷」っていう題で書いたで(笑)
ワシも他に適当な呼称もないんで、とりあえず、佐々木と同じ「それ」を名乗っておるんだが、「時間の経過」ってのは、人間をココまで変えるんだな。ヤツも、いよいよ、「安牌」の仲間入りだわな。もう、信濃町に足を向けて寝れんもんなあ。この商売ってのは、本スジを抉り出して、根底からの一撃を入れるよりは、「クラウド」だの、「ウェブ2.0」だの、わかったような、わからんようなカタカナ言葉を振り回して、煙に巻いておった方が、アブク銭にありつけるんだからなあ。転んでしもうた方が、ラクラクと食ってイケるんだよなあ。
それはそうと、「主不在」の信濃町丸ハムファイターズは、今度の消費税増税政局で、どう、「カイサン戦略」に打って出るんだろうなあ。ワシ、『フォーラム21』でも書いたんだが、「ケンリョクは数なり!」でいえば、間違いなく、現行よりギセキ増が見込める、「衆」の連用制(or併用制)を導入させる意気込みっていうか、カクゴが、まったく感じられんよなあ。こういう勝負ネタに、果敢に突っ込もうっていう猛チャージが見えんっていうこと自体、「主不在の証明」以外の何物でもねえんだよな。だから、余計なお世話だろうが、そんなんだったら、もう、「衆」からは、さっさと撤退しろってんだよなあ。
#この「3・11」による惨事、とりわけ、フクシマ第1原発の爆発ジコは、とてつもない禍根を、ニッポンだけでのうて、全世界に対して、将来にわたってもたらしたということだけは、疑いの余地はないだろう。ワシ自身も、今度のジコで、恥ずかしながら、「核」と「原発」が一本の線でつながっておるっていうより、要は、コインの「オモテとウラ」に過ぎないっていうことを、遅ればせながら、やっと認識できるに至った。己を振り返り、改めて「無知」であったというより、他はない。
その文脈の流れとは、少し離れるかもしれないが(でも、根っこではつながっておるだろう)、あのロッキード事件による「田中角栄タイホ」だが、世の人々は、皆、「終わってしまった、冷たい事実」という、結果しか見て、モノを言わん。だから、アレは「亜米利加の虎の尾を踏んだ」ということになってしもうておるんだが、しかし、動いておる現実というのは、そういうものではない。アレも一歩、タイミングがズレておったら、「角栄タイホ」もなかったかもしれない。そのことを、少し喋ろう。
#「上」の続きだが、それについては、平野貞夫のオッサンの『昭和天皇の「極秘指令」』(講談社+α文庫)に出てくるんだが、「ロッキード国怪」といわれた1976(昭和51)年の通常国怪だが、例のチャーチ委員怪でピーナッツ関連のブンショがバクロされるのは、2月のアタマのことなんだが、このときの政局も、非常に微妙なものがあって、三木ナイカクは、年末が「衆」の任期満了ってことで、カイサン含みの展開で、三木はぬあんとしてでも、カイサンを狙っておったんだが、とはいえ、力も落ちてきていて、「どうなるか?」っていう状況だったんだな。
で、平野のオッサンのこの本での、おそらく、戦後史における超ド級スクープだと思うんだが、昭和天皇が、当時、衆院議チョーだった前尾繁三郎に対して、「NPT(=核不拡散条約)の国怪批准」を催促しマクっておったってんだな。それにアタマを抱え込んでおった前尾は、ぬあんとしてでもNPTを批准するため、国怪をカイサンさせずに、シンギを正常化させようと四苦八苦しておった状況が、出てくるんだな。
このNPTを調印したのは、70年2月、佐藤ナイカクんときだったんだが、ところが、国怪批准は、その間、ずうーっと店晒しになっておって、75年の通常国怪に、ようやく批准アンケンが「衆」に出されたんだが、継続シンギで放っておかれて、年が開け76年に入って、カイサン含みの展開になってきたため、批准は相当、難しい雲行きになってきておったんだな。
#さらに続きだが、そのNPTの国怪批准がずうーっと店晒しになっておったことについて、ぬあんと、昭和天皇こと、裕仁は外国の元首連中、例えば、英吉利のエリザベス女王サマといったあたりから、「オマエんところは、いったい、どないなっておるんや!」って、ケツを叩かれマクっておったってんだな。だから、昭和天皇は、折に触れて、当時、衆院議チョーだった前尾繁三郎と面会すると、「NPTはどんな塩梅ぢゃ? 朕に申してみよ」とせっつかれたため、「ぬあんとかせねば!」と、焦っては思い悩んでおったってんだよなあ。
結論からいえば、NPTは国怪で批准され、そのため、「衆」のカイサンは阻止され、結果的には、76年12月の任期満了による総センキョになってしもうたんだが、それは、「カイサン阻止=NPT批准」っていうことに向けた、前尾の凄まじいまでの意思があったからなんだな。
それは、重ね重ね言うが、昭和天皇からケツを叩かれておったからなんだが、当時の状況を見ると、ワシもブンヤだから、すぐ、ウラを取る。縮刷版とかめくっておると、このときのロッキード国怪においては、どう転んでもわからん状態だった。その最中、ケンサツ(=赤レンガ)は、ケンサツで角栄に対しては、「ギイン辞職すれば、タイホは見送る」っていうサインを送っておって、具体的には、総チョーだったフセケンの意向を受け、前尾は角栄に「この際、議員バッジを外してもらえんだろうか」と打診しとるんだよな(もちろん、角栄は相手にはしとらんかったが)
でも、もし、アソコで前尾が「カイサン阻止!」の大執念を見せんかったら、自社は、「早いとこ、カイサンしやう!」で動いておったんで、いったん、「カイサン→総センキョ」で突っ走っておれば、もちろん、NPT批准もフッ飛んでおったんだが、それと合わせ一本で、諸々、そこで政局もリセットされるっていうか、流れが断ち切れるんで、「角栄タイホ」はなかった可能性が大っていうか、ワシはなかったと思う。だから、「歴史」っていうのは、当事者がそうやって動いておる間っていうのは、「どう、動いて、転がっていくか」なんて、わからんのだ。
#さらに続けるが、76年の通常国怪での「衆」のカイサンがなかったことで、ロッキード事件は、6月に入って、異例の「閉会中シンサ」っていうカタチで、丸紅カンケイシャの証人喚問へと入っていって、コレを受ける格好で、ケンサツは、その丸紅ルートから続々、身柄を取って行ったんだよな。そうやって、ソーサは動き出して、最終的には「角栄タイホ」へと進むんだが、重ね重ね、もし、ココで「カイサン→総センキョ」の展開になっておったら、コレらはみんな、パーになっておっただろうからなあ。だから、「歴史のウラ」っていうのは、オモロイって、改めて思うで。
で、そのNPTが調印から批准まで、6年以上も店晒し状態にされたのは、「現代史のナゾ」とまで言われておって、自民トウは自民トウなりに、また、社会トウは社会トウなりにいろんな事情があったようなんだが、でも、最終的には、ケンリョク最中枢の「核武装の意志」だろうなあ。だから、佐藤栄作、田中角栄は、ワシは意図的にほったらかしておいたんだと思う。少なくとも、栄作は「核武装ロンジャ」だったってんだよな。
そもそも、このNPTってのは、「ニッポン&独逸の核武装阻止!」の目的でこしらえたんだからな(笑)。その最大ターゲットのニッポンが批准せんってのは、「オマエんとこを縛るために作ったっていうのに、いったい、どうなっとるんだ?」って、昭和天皇陛下も、ウジャウジャと外国の元首連中から、文句を言われるワケだよなあ。
だから、NPTも、このタイミングで、もし、ニッポンが批准しておらんかったら、その後、どうなっておったか、わからんのだよな。実際、当時、言われておったのが「コイツもジュネーブ議定書の二の舞になるのではないか」っていうことで、ジュネーブ議定書ってのは、毒ガスや細菌兵器を禁止した国際協定んだなんだが、ニッポンはデキた直後の1925年に早々と調印しておったんだが、批准したのは、ぬあんと、それから45年後の1970年だったんだよな。
で、ハナシを戻すと、結局、カタチの上では、「角栄タイホ」ってのは、「NPTの国怪批准=カイサン阻止」とバーターになっておったんだよな。もっと言うなら、「NPT批准」っていうツボをピャーッと押したからこそ、「角栄タイホ」が出てきたっていうことなんかいなあ。だから、そこに、ワシなどは「歴史の妙」を感じる。それもあって、平野貞夫のオッサンに会うて、このハナシを聞いたとき、「この『昭和天皇の「極秘指令」』というのは、歴史に残るスゴイ本ですよ」ということを(ホンマにそう思っておるんで)言ったら、「誰も、そんなこと言ってくれんのだよ。君ぐらいのもんだ」って言われたなあ。でも、この本はホンマ、スゴイ本で、あの「3・11」があったんで、また、改めてヨミ込んで、さらに理解を深めておるところなのだ。
#今日(=5・14)発売の『ポスト』にも、その佐野眞一の筆による「イケダモン大先生と信濃町の80年史」と銘打った、「化城の人」の連載が出ておるんだが、まだ、戸田城聖時代の狸祭りジケンに、小樽問答のハナシを延々とヤッとるんだよなあ。超マニアックっていうんか、サワリが長過ぎて、ワシなんかは、もう、イライラしてくるよなあ(笑)。スカートの裾をめくり上げて、パンツに手をかけようとして、まだ、かけんっていうんかいなあ。前戯が異様に長いよなあ。まだ、初代、2代目の時代でウロウロしとるんだよなあ。いつになったら、本番が始まるんかいなあ。
ワシも、コレまで、そんなに精読しておったっていうワケぢゃねえんだが、イケダモン大先生の「出自」とかも、ちゃんと書いておるんかいなあ。「在日2世」のハナシも、出てくるんかいなあ。アレは、案外、ウラを取るのが大変なんだよな。ナイブでは、「山友ですら、『そのハナシはデマだ!』って言っておったんだからな」と触れ回って、ソシキの引き締めに躍起になっとるんだからなあ。アレも、信濃町的には「タブー」の一つだよなあ。
それと、大先生の「入信神話」だよなあ。『人間カクメイ!』では、最初から、戸田城聖との「血脈相承」があったかのようなフィクションをこしらえておるんだが、そういうとこも含めて、ちゃんと論破するんだろうなあ。それでいうと、大先生がチョッカイを出しておった、あの三宅シスターズ(淑子&妙子)のハナシも、まだだよなあ。少なくとも、三宅シスターズの件は、アレは三角カンケイっていうか、大先生的には「姉妹どんぶり」を狙っておったんかいなあ。読者としては、そこらあたり、「新事実」は欲しいよなあ。
#今日(=5・15)は、オキナワ本土復返40年ってことで、各紙、コレに合わせて続き物をヤッておったところもあったが、ちょうど40年前ってのは、ワシは小学校1年だったんだが、コイツは覚えておらんなあ。もし、地元のウチナーだったら、クルマの右通行が左になったり、ドルから円に替わったりと、そういう目に見える変化もあるんで、同じ年代でも覚えておる人は多いんだろうが。その直前にあった、あさま山荘ジケンと、その直後の田中角栄のソーリ大臣就任は、ワシ、覚えておるんだが。
東京シンブンが5回の続き物をヤッておったんだが、「オキナワの現状」をコンパクトにまとめてあったように思う。軍事マターのハナシは、半田滋のオッサンが「字」にしておったが、とりたてて新しいハナシではないが、ちょうど、40年近く前からあった米軍の辺野古埋め立てアンとか、数字だけいじくり回して、実態はまったく変わらん海兵隊のグアム移転(グアムに行くのは、「実戦部隊」っていうローテーション要員のみ)とか、基地関連のキモのハナシが入ってるんで、輸入タイ米を原料にしとる泡盛のように減税ソチを受けず、地元のサトウキビを使って「真の地酒に挑む」ってことで、「伊江島でのラム酒づくり」のヒマダネとかが、生きてくる。
#「上」の続きだが、昨夕(=5・14)の朝日に、普天間キチのすぐそばの宜野湾市の上大謝名地区に、キシャがこの1月中旬から4ヵ月間、アパート借りて住んでおるっていうハナシを「字」にしておったなあ。コイツは長期出張の扱いなんかいなあ。キチの騒音モンダイを取材すると、「うるさくてたまらない」っていうのと、「いや、慣れるよ」と、必ず二つの声を聞くんだが、「ぢゃあ、いったい、どっちが本当?」ってことで、「だったら、住んでみやう!」ってことで、住み始めたってんだよなあ。4ヵ月とはいえ、毎日、「そこ」に住んでおるんで、実感が籠もってるなあ。
その住んだキシャの実感としては、「耐え難い」っていうのと、「慣れる」というのと、両方わかるっていうことだった。っていうのは、いちいち気にしてたら、ヤッてられんっていうのと、相手は「米軍サマ」ってことで、ニッポンの法律の適用除外っていう、ある種の諦めだろうなあ。ただ、その一方で、地元に住んでおるからなんだろうが、あの軍用ぢぬし様ですら、「『カネをヤルから文句を言うな』という音でもある。時々、撃ち落としたくなる」と喋っておるところが、「へえーっ」だったなあ。こういうコトバは、いきなり、フラッと本土からキキコミにやってきたぐらいでは、なかなか、喋ってくんねえよなあ。一応、現地に住んどるだけある。
あと、今朝(=5・15)の毎日が、隣接する小学校の6年生に作文を書いてもらうて、そのうちの3人の分を載せておったな。みんな、口を合わせて言うのは、「キチがなくなったら、そこに遊園地やスポーツ施設を作って欲しい!」ってことだよなあ。そういえば、オキナワって、ま、ディズニーランドとまでは行かんでも、遊園地ってなかったんだっけ? しかし、せめて、子どもが思いっきり遊べる場所ぐらい、確保してヤレよっていうカンジだよなあ。コレは「最も弱いところにしわ寄せが行く」という、まさに、「戦争=暴力」の本質だと思う。
#今日(=5・15)発売の『アサ芸』に、連休明けのこの「5・10」に、菱本家で定例会があったのと前後して、執行部人事だが、その1ヵ月前に筆頭のカシラ補佐兼務で、「室長」という新ポストに就いておった正木年男が、兼務を外れて、その正式名称ってのは、「本家室長」ってのかよ。だから、ナンバー2のカシラ(=高山清司)以下、総本部長(=入江禎)、統括本部長(=橋本弘文)と合わせて、「新4役体制発足!」って「字」にしておったなあ。
ただ、記事の書き方が、最後の方に「……の模様だ」と入っておって、断定しとらんのだよな。だから、この正木年男がカシラ補佐の兼務を外れたのは、本当なのかよ? コイツは、兵庫ケンケイの暴対に確認せんとだなあ。もし、この人事発令の通りだった場合、いったい、誰が「筆頭のカシラ補佐」なんだよ? 直参昇格の年次から行けば、侠友会会長の寺岡修(=92年2月)だろうなあ。
ちなみに、「侠友会」っていうのは、あの亀谷直人が射殺した、当時、山健組傘下の鶴城丈二が率いておった組とまったく同じ名前だが、カンケイはない。6代目(=司忍)体制になって、禁止のお触れが出たそうなんだが、菱の家の中でも、幹と枝葉との間で、こんなふうに、偶然、同じ名前の看板を掲げておるっていうのが、よくあるってんだよな。
#今日(=5・15)の12:22upの共同電も「字」にしておったが、FD改竄ジケンの実行ハンの前田恒彦が、今朝、勤め先の静岡のムショを後にしたんだなあ。1年6ヵ月(うち未決勾留150日間算入)の実刑ってことで、仮釈放は付かず、結局、満期出所とのことだ。今後、罰金刑以上が科せられなければ、10年で名誉回復っていうか、弁護士も開業デキるってことだが、本人は地元の呉に戻るらしい。コレを見て、今、大坪弘道と佐賀元明は、どう思っておるのだろうか。
ん、待てよ、ひょっとして、この共同原稿は、「大阪発!」ってことは、ねえのかなあ。敢えて、名前は出さんが、ワシとニュース・ソースが同一の可能性がある(笑)
#今朝(=5・16)のヨミが、サイバン員制度開始から3年ってことで、続き物をおっ始めておったな。1回目は「サイバン員、量刑相場を崩す」ってことで、従来は、「ケンサツ側求刑の8掛け」が相場だったんだが、制度導入後は、例えば、知的障碍のある長男をコロし、自分もジサツを図った父親に懲役2年6ヵ月(求刑同7年、大阪チサイ)と、求刑の半分以下のハンケツがある一方で、強制わいせつ致傷の被告に懲役8年(求刑同7年、さいたまチサイ)と、求刑を超えるケースもあって、ま、「異変勃発!」ってことで、ニュースだとハンダンしたんだろうなあ。
ワシは思うに、職業サイバン官と違うて、市民選出のサイバン員ってのは、よくも悪くも、「それ1回ポッキリ」ってことで、おそらく、人生で最初で最後の体験なんだろうから、それで余計、考え抜くっていうところがあるんだと思う。コレが従来の職業サイバン官だと、ホンマ、ヤクショ仕事になってしもうて、ハンケツ文はケンサツ側のキソ状&冒陳のコピペ、量刑もピャーッと「求刑の8掛けでオシマイ!」だったんだろうしなあ。
ただ、ワシは何度も言っとるように、サイバン員の役割は、英米式の陪審制と同様、「クロかシロかの認定」だけに留めるべきだという立場だ。だから、もし、「クロ」と判断した場合、量刑についても、意見は言えるようにしておいてもいいだろう。しかし、最終的には、そこは職業サイバン官にお任せでいいと思う。
確かに、量刑ハンダンで「死刑か無期か?」っていうのも、重要なポイントだが、でも、有期刑の場合でも、「何年にするか?」っていうのは、被告人のその後の人生を考えれば、大きなモンダイだと思う。あと、被告人がキソ事実を認めて、争う意思がない場合、敢えてサイバン員を付ける必要があるのか、という気がする。そこらあたり、陪審制への変更と合わせて、今後、いじくるポイントだと思うが。