三井環(元大阪高検公安部長)氏への「裏金公表阻止を狙った口封じ逮捕劇=冤罪事件」を徹底的に弾劾する |
#で、昨日(=12・27)、普天間いじくり回しモンダイの評価ショ提出騒ぎのドサクサに紛れて、その「武器輸出禁止3原則」の、ま、事実上の大幅骨抜きといっていいだろうなあ。コイツを、藤村の官房チョー官談話のカタチで公表しておったが、非常にマニアックなハナシではあるが、大きなモンダイを孕んでおるんで、少し説明しておくワ。
もともと、この武器輸出禁止3原則(シンブンでは「武器輸出3原則」と書いておるが、中身的には「禁輸条項」であるのだから、ワシは敢えて、わかりやすくなるよう、「禁止」という文字を入れて表記する)とは、佐藤栄作んときに「①共産圏諸国②国連決議が輸出を禁止した国③国際紛争当事国━━には武器や関連技術の輸出を認めない」っていう国怪答弁(67年4月)のことで、この後、三木武夫んときに「①━③以外の国にも輸出を慎む」との政府統一見解(76年2月)を出したことで、事実上の全面禁輸ソチとなったものだ。ま、「法律で縛る」というものではないんで、ある意味、「紳士協定」のようなもんだが、逆にそうでないがゆえに、「法でのうて、モラルで自らを律する」というところに、格調があったと思う。
で、今回は、それに対して、官房チョー官談話のカタチで、「我が国のアンゼン保障に資する国際共同開発&生産に関するアンケンは、包括的に例外化ソチを講じる」としたんだな。ポイントは、ココの「包括的に例外化ソチを講じる」っていうブブンだな。というのは、コレまでも、ナカソネんときに「亜米利加向けの武器技術供与」(83年)、コイズミんときには「(当たらん)MDの日米共同開発&生産」(04年)っていうふうに、3原則の「適用除外」を設けてきたんだが、それでも、あくまで文言上ではあるが、「亜米利加向け」「日米共同によるMD開発&生産」っていうふうに、「個別具体的なアンケン」に絞っておったんだよな。
ところが、今回は「包括的に例外化ソチを講じる」としたうえ、そうした例外化ソチの対象も、「我が国とアンゼン保障面での協力カンケイがあり、アンゼン保障に資する場合」であれば、「何でもOK」にしたんだよな。「vs亜米利加」っていう縛りすら、存在せんのだよな。ダダ漏れっていうか、武器輸出禁止3原則の網を、丸々ピャーッと外したに等しいからなあ。つまり、「アホ政策の都合により」っていうリクツを付けりゃ、「何でも通し!」なんだよなあ。
#「上」の続きだが、今回の武器輸出禁止3原則の骨抜き官房チョー官談話は、例のFX(次期戦闘機)に最終ケッテイした「F35」(ロッキード・マーチィン)と、モロ、関わっておる。ま、このF35が、「まだ、開発途中で、未完成であるうえ、既に不具合が出マクっておる」っていう欠陥商品であるのは、今は置いといてだな(笑)、開発&生産のメインである、オイシイところは勿論、亜米利加のロッキード・マーチィンがぶん取るが、オコボレの部品の一部の生産については、英吉利、伊太利亜etcの欧州諸国も既に入れられておって、まさに、その意味では「共同カイハツ」のカタチを取っている。ま、「共同カイハツ」っていえば、とてもリッパに聞こえるが、要は、自分んとこは国防費削減で、予算が取れんから、「いいか、その代わりに、カイハツにかかるカネを、オマエんとこからも、イッパイ吐き出せ!」っていう、亜米利加サマの脅しなんだわな。だから、「FXはF35にケッテイ→武器輸出禁止3原則の骨抜き」ってのは、完全にニコイチの関係にあるんだな。
このF35については、まず、最初に買わせられる4機(おそらく、1機あたり最低でも80億円)については、亜米利加サマの言い値で押し付けられるFMS(対外有償軍事援助)で、それからトータルで40機前後も買わせられることになるんだが、「FMS後の購入」については、「ライセンス生産」のカタチで、ニッポンの3ダイヤ重工&電機、あと、IHIが参画できることになっておるんだな。で、その機体組み立ての一部については、具体的にどこまでになるかは、「これからの交渉」だろうが、いずれにしても、「高いライセンス料」を亜米利加サマに支払って、ニッポンも晴れて、将来的には「共同生産」に加わるっていう運びになるんだな。
そうなると、FMSによる押し売りが終わって、ライセンス生産に入る「5機目以降」については、目ん玉がピャーッと飛び出るようなライセンス料を追加で払わなアカンくなるんだが、巷で言われておるのは、「いいか、値段は2倍以上になるで!」ってんだよなあ。ってことは、ぬあんと、「1機あたり160億円超」だからなあ(**)! もう、バカも休み休みにしてくれっていうカンジなんだよなあ(笑)
#さらに、「上」の続きだが、今回の「武器輸出禁止3原則」の大幅骨抜きは、今朝(=12・28)のヨミの記事だと、「野田の強い意向」ってんだよなあ。そもそも、野田は、その普天間いじくり回しの環境アセスの評価ショ提出と合わせ、「F35の購入」についても、総理ダイジン就任早々から、亜米利加サマに、相当、ネジを巻かれておったっていうし、もう、まさにトップダウンそのもので、アタマから押さえつけられ、「オンナを犯すがごとく」(by前オキナワぼーエイ局チョー)、一気に飲み込まされたっていうカンジだよなあ。
だから、野田はもう、ケツの穴の奥まで、亜米利加サマに、チ〇ポをズッポシ、深々と挿入されたっていうカンジだよなあ。あと、それと、9月に亜米利加に遊びに行った際に、講演で「親分サマのおっしゃるように、ちゃんと見直しまーす!」と喋っておった「政調会チョー・前原」の線だろうなあ。この「2つのツボ」をピャーッとごり押しするだけでも、相当、「動く」からな。
そこで、オモロイのは、今度の官房チョー官談話による「武器輸出禁止3原則」の骨抜きについて、代々木や三宅坂は、いつものように「ハンタイ」を唱えて、福島みずほなんかは、官邸に乗り込んで行って、藤村に「ゼッタイに容認できない、撤回しろ!」とまくし立てておったんだが、ぬあんと、今回は、イケダモン大先生んところの信濃町丸ハムファイターズまでもが、「ケシカラン!」と反発しておるんだよなあ。特に、副将の斉藤鉄夫は「共同カイハツの武器が紛争国に輸出されれば、ニッポンは『死の商人』に見られる」って、噛みついておるんだよなあ。いやあ、この「死の商人」ってのは、今の時代、まさに「死語」なんだが、でも、久しぶりに聞いたよなあ(笑)。ま、どこまで本気かは分からんが、でも、野党らしくなってきたなあ。
#えっ、仕事納めの今日(=12・28)、いきなり、電光石火のごとく、ムネムネを旗頭とする、新党「大地&真民主党」を結成し、届出かよ(**)! で、参加ギインは、「衆」が、松木謙公(民主→除名→無所属)、石川知裕(民主→離党→無所属)、浅野貴博(大地)、「参」が横峯良郎(民主→離党)、平山誠(新党日本→無所属)の計5人かあ。政党助成金が貰える「資格要件」をクリアしたんだんな。しかし、この「真民主党」っていう、ネーミングがエエよなあ。「ウルトラマンvs偽ウルトラマン」の対決みたいに、「さて、いったい、どっちが本物で、どっちが偽者か、さあさあ、有権者の皆さん、その貴重な尊い1票でハンダンして下さい!」だからなあ。
で、消費税増税をはじめとする、「マニフェスト違反」に怒りマクっておる、内山晃(千葉7区)ら、民主の若手9人も離党を宣言し、年明けにも「新党結成」かあ。いや、イイねえ。若いから、「失うものは、何もない!」っていうカンジで、その青臭いところがイイねえ。でも、今の時期っていうのは、いいタイミングだと思う。「鉄は熱いうちに打て!」って言うように、タイミングを外してしもうと、「オトコとオンナの、それ」のように、なかなか思い切って飛び出すってことに、踏ん切りがつかなくなるからなあ。「消費税ハンタイ!」だけで、十分、「新党の旗」になる。なぜなら、「次の総センキョ」は、「それ」が最大争点だからだ。コイツは、浮動票の「受け皿」になりうる。いよいよ、永田町も「臨界」に達して、メルトダウンがおっ始まったな(笑)
#「上」の続きだが、ワシ、ホンマ、うっかりしておったっていうか、うかつとでもいうのか、恥ずかしいハナシではあるんだが、今、ムネムネってのは、まだ、「齢63」だったんだなあ。「1948・1・31」の生まれで、年が明けて、齢64なんだな。ひょっとして、菅直人より若いのかよ? てっきり、ワシ、六十路後半ぐらいだと思い込んでおって、「刑期終了から5年後は、もう、齢70過ぎってのは、チョット、キツイなあ」と思っておったんだが、まだ、全然、若いし、バリバリだよなあ。
で、仮釈放になって、シャバに出てきてからのムネムネ日記を読んで思ったんだが、ムショに放り込まれて、勤めをさせられたっていうのは、無罪を主張して全面的に争っていた本人にとってみれば、不条理極まりないっていうか、ハラの立つことしきりだったんだろう。しかし、そこで見て、経験したこと、さらには、そこで、好むと好まざるとにかかわらず、「3・11」に遭遇したというのは、本人にとっては、非常に大きな糧になっておるんだと思う。「急がば回れ!」とは言うが、こういうのを見ていると、ゴールに向かって、ただひたすら最短距離を猛疾走することが、本当にいいことなのかということを、考えさせられるよなあ。読んでて、胸に染み入ってくるコトバがある。そこには、生きておるニンゲンの慟哭っていうか、叫びのようなものがあるよなあ。
おそらく、ああいうムショという空間は、そうした「効率性」ということからは、取り残されたっていうか、疎外された人たちが、大勢おるんだと思う。そういう目線から、今の社会を、そして政治を見ていく人材っていうのが、このご時世、おらんからなあ。腐れケンサツの国策ソーサに狙い撃ちされたがゆえに、多大な労力を取られてしまったわけだが、しかし、そのことによって、「見えてきたもの」っていうのは、たぶん、あるハズで、だから、人生ってのは、何がどう展開してイクか、わからんよなあ。フツーの政治家は、アソコで身柄を取られた時点で、オシマイなんだがなあ(笑)
政党助成金にしろ、ギイン歳費にしろ、ヤクニンの給料にしても、元はワシら主権者たるコクミンの血税だ。こうしたコクミンの下僕を、主権者は、きっちりと監視し、コントロールしなければならない。
#年の暮れ、寒波の到来とともに、KANSAIから情報が入ってきて、例の「2億円の件」(=桑田兼吉保釈コーサク)に絡んでだが、その群馬の山中で白骨で見つかったのは、山健に所属しておった「渡辺直視」っていうヤクザで、その2億円の件にも多少、関わっておったかもしれんが、「おそらく、別件でコロサれたのではないか」との見方だ。
それと、亀谷直人(元・2代目佐藤組内六甲連合会長)は、菱本家の5代目(=渡辺芳則)と個人的に見知っておったらしい。本人は「勤めを終え、シャバに戻っても、ヤクザとして生き残りたい」という思いが、まだあるようだが、そもそも本人は絶縁処分されているうえ、5代目は既に引退、ヤクザ渡世の親分である細見孝夫(=2代目佐藤組組長)も引退させられ、佐藤組ももうない。亀谷の場合、仮出所は100%ありえないんで、満期である懲役20年のムショ暮らしを勤め上げた時点では、齢74なんで、「極道をまっとうする」ってのは、厳しいというか、まず、無理だろうなあ。
#で、大蔵ショウにケツを叩かれて、イケイケドンドンで突っ走っておる民主トウの「消費税増税ケーカク」だが、その「2014年4月から8%、15年10月から10%」ってのは、昨日(=12・29)の党税チョーでのケッテイで、事実上、「トウとしては、決まった」っていうことなんだろうなあ。今日(=12・30)の政チョーは、それの追認だろうなあ。結局、年が明けて、正式に閣議ケッテイして、来年(2012年)の3月末までに、「消費税増税ホウアン」を国怪に出すのかよ? しかし、この一連のマニフェスト総決壊状況は、スゴイよなあ。その「八ッ場ダムの建設再開」と合わせて、ココに来て、一挙にメルトダウンを起こしたよなあ。
確か、民主トウは、この前の総センキョでは、「我々がセー権に就いたら、消費税増税は向こう4年間、封印します。何よりも無駄の削減で、自らの身を切ることから始めまーす!」って言っておったよなあ。それで、多くの有権者は、民主トウに1票を投じたワケだからな。それがあったから、セー権交代直後に、蓮舫がシャリシャリ出て仕切った、あの「仕分け作業」に、物凄い注目が集まり、見世物としても盛り上がったワケだからな。しかし、この背信っていうか、公約破りは、凄まじいまでの劣化、退廃だよなあ。でも、ぬあんで急に、こんなに酷くなってしもうたんだろうなあ。で、その「消費税増税ホウアン」だが、国怪に上程しても、「通る」見通しがあるんかいなあ。
#「上」の続きで、ま、通常であれば、この「消費税増税」というのは、当然のごとく、「解散・総センキョ」で民意を問うべき内容だ。コイズミが発狂シマくって、解散・総センキョで問うた、あの郵政民営化どころのハナシではない。とりあえず、年が明けて、通常国怪を召集して、年度内の3月イッパイまでは、新年度の当初予算を通さんとだから、「それから」、6月の会期末に向けた攻防だろうなあ。「参」はご存知の通り、ねじれておるんで、解散含みの展開はありうる。平河町はもとより、「主不在」の信濃町丸ハムファイターズが、果たしてどういう出方をするんかいなあ。そこらのところ、乙骨サンんとこの『フォーラム21』に頼まれて、新年号(1月10日発行)で少し書いた。
そこで、「数合わせ」で見るとだな、「衆」はエエとして、モンダイは「参」だよなあ。消費税増税ホウアンを通すには、「民+公」「民+自」「民+自+公」の、この3つの組み合わせ以外にない。仮に、強引に、問答無用でホウアンを成立させたとしても、賛成したところには、ワシら主権者は、「衆&参」の国政センキョが、いずれにしても近いから、ナンボでもお灸を据えることがデキるからな。竹下ナイカクで消費税を通した後の89年の参院センキョ、あと、菅が唐突に「消費税増税」をブチ上げた去年(10年)の参院センキョ見りゃ、「結果」なんてのは、バカでも分かるからな。しかし、大蔵ショウってのは、じつに上手い役回りだよなあ。ウラで台本だけ書いて、「ババ」は、そんときの国怪で踊っておる大根役者が所属する、セー権与党に掴ませりゃエエだけだからなあ(笑)
#で、いよいよ年の瀬も押し迫って、今年1年を回顧するとだな、やっぱり、「3・11」の大震災だよなあ。あの日は、ウチにおったんだが、揺れが凄かったのもそうだったんだが、普段だったら、すぐに収まるんだが、あの日はホンマ、ダラダラと小1時間は揺れが続いたんかいなあ。「おかしいなあ」と思っておったら、停電が始まったんだが、なかなか復旧しない。外に出てみると、夕方も暮れてきて、辺りも暗くなってきたんだが、電気もつかんで、信号も止まっておって、で、とにかく、人の集まっておる駅の方に行ってみたら、ラジオを聴いておった人が、「どうも、東北の方で大きな地震があったらしい。被害も相当出ておるようだ」と。ココから、ワシの「3・11」が、始まったよなあ。
それから、1ヵ月ほどは、余震がワシの住んでおる首都圏の方でも、かなりあったんで、カラダがいつも、ユラユラと揺れてるカンジだったよなあ。あの無計画停電の大騒ぎと相まって、震災による物流の滞りもあったんだろうが、ウワサがウワサを呼んだっていうんかいなあ。スーパーの棚にあったトイレットペーパーが、ピャーッとなくなっておったのは、まだ、分かるにしても、生理用ナプキンが見事にスッカラカンになくなっておったのには、ホンマ、驚いた(**)。トイレットペーパーは、毎日の糞ションベンだから、まだ、しゃあねえにしても、「生理なんて、月イチだろうが」って、思ったなあ。被災地のことを思えば、「シンブン紙でもくるんで、パンツん中に突っ込んでおけ!」って思ったで、ワシは。
#「上」の続きだが、その震災から、9ヵ月が経って、最初の年も暮れようとしておるのだが、もう、「風化」とかいうコトバも囁かれ始めておるんだが、「ホンマかよ?」と思うなあ。恥ずかしながら、ワシはまだ一度も被災地に足を運んでおらんのだが(一度は、行かなアカンと思いつつも、まだ行っておらんのだが)、それでも、シンブンetcで断片的に流れてくる情報(写真&記事)を目にするだけでも、「風化って、どこの世界のハナシ?」って思うよなあ。
いみじくも、韓国の中央日報が「ニッポン沈没」とまで形容したが、あの津波の被害ってのは、声を失うよなあ。100年に1度とも、1000年に1度ともいうレベルの未曾有の甚大さだったというが(そう、しょっちゅうあってもらったら困るが)、阿鼻叫喚の無間地獄とは、あのことをいうのだろうか。とりわけ、被災地はコトバでは言い尽くせない悲しみと苦しさを体験せざるを得なかったわけだが、しかし、そういうジゴクをくぐり抜けたからこそ、見えてくるものがある。「原発=核兵器」は、ワシもそうだった。
原発のアンゼン性っていうか、「キケンだろう」ってのは、薄々は感じていたし、わかってもいたが、「ぢゃあ、それがいったい、具体的にはどうなのか?」というところまでは、なかなか思いが至らなかった。もっとも、それはワシの勉強不足以外の何物でもなかったんだが、しかし、原発にハンタイしてきた人たちは、既に前からそこのことを指摘しておった。そして、その通り、じつに不幸な結果にはなってしまったのだが、でも、あのフクシマ第1原発ジコで、「そのこと」がホンマ、よくわかった。ぬあんで、アソコまで、オモテからウラから、飴玉をシャブらせて、「ハンタイ意見」を口封じしなければならなかったかが、よく分かった。同じ発電所でも、火力や水力で、アソコまで徹底的にヤリ尽くすってことは、せんからなあ。
#さらに、続きだが、その「3・11」の直後に、石原慎タロウのおぢいちゃんが、「天罰が下った」と発言し、物議を醸したが、しかし、胸に手を当てて、落ち着いて考えてみれば、ワシは、それもむべなるかなという気がする。やっぱり、ニンゲンっていうのは、そもそも本質的に「罰当たりな存在」で、ホンマ、ああいうことでも起こらんことには、図に乗って、どんどんとロクでもないことをヤラかしてしまうっていうんかいなあ。だから、一度、奈落の底に突き落とすっていうのか、無間地獄に放り込むことで、正気に戻させるっていうんかいなあ。それゆえ、今度の震災は、津波の大被害を受けた東北沿岸部にせよ、また、原発ジコが収束しておらんフクシマにせよ、現地で起こっておることは、「ワシらの共有体験」でもある。もし、ニンゲンであるならば、我々は、他人の痛みを思いやる想像力を、失ってはならない。
リンクで貼り付けておる、ココのB面ブログにあたる「ヒマダネの部屋」の方で、チョロっと書いたんだが、最近、『エンディングノート』というドキュメンタリー映画を観た。モーレツサラリーマンを退職したばかりの齢60後半のオッサンが、「末期がんで、余命半年」と宣告された後の「最期の半年間」を、コレがデビュー作となった映画監督である娘が、カメラで追いかけ回したものだ。確かに、人の死、とりわけ肉親の死というのは、誰にとっても悲しいものだ。しかし、この「3・11以降」のニッポンにおいては、痛切に思うんだが、ああやって、畳の布団の上、もしくはベッドの上で、家族や親しい友人に囲まれながら、自分から「バイバイ!」と言って、冥土へ旅立つってのは、「幸福な死」といえるのではないだろうか。その対極にあるのが、「3・11」にも象徴される、「非業の死」だからだ。津波の被害で亡くなった人たちは、親しい人や愛する者に「バイバイ!」と言う間もなく、命を落としてしまった。こんな悲しいこと、無念なことが、他にあるだろうか?
津波の被害に遭った人たちの中には、亡き骸が、今なお見つかっていない人も大勢いる。それを思うと、同じ人間として、胸が痛む。フクシマもこれからが本当に大変だが、何とかこの状況を打開するというのか、変えていく努力を、年が明けてからも、また、ワシは、非力ながらも続けたいと思う。人間というものには、おそらく、「蘇生する力」がある。それは諦めずに、希望を持ち続けることの中から、生まれてくるのではないだろうか。悲しみは悲しみとして、しっかりと受け止めつつ、大変ではあるけれども、でも、それを乗り越えていくということをしなければならない。今年の大晦日は、除夜の鐘をしんみりと聴きながら、無念にも非業の死を遂げた人たちのことを思い、冥福を祈るとしやう。合掌。