「通信の秘密」を守ることは、なぜ、重要なのか |
<僕等、心を患った者達が通っている。
社会の片隅に陣取って
じっと社会を見つめている。
差別と偏見に負けそうになる。
小さな花が、しぼんでしまいそうに。>
こうしたフレーズで始まる「小規模作業所」という題の詩は、さらに次の言葉で締
めくくられています。
<病いに社会に潰されそうになりながらも
僕等は、一人二人と働いていく。
社会に甘えることなく。
僕等障害を持ちながらも人間として生きていきたい。>
本の奥付を見ると、著者は「松原徹」と書かれ、版元は南方新社という鹿児島市内の出版社で、初版の刊行年月日は「2001年12月20日」と書かれています。
もちろん、私はこの著者である松原さんを知りませんし、どういう方なのかもしりませんが、そのあとがきを見ると、「確かに私は精神障害者です。そして全障害者ためにも奮闘したいと思っています。また、一人の生活者として、社会人として、活動家として、詩人として、冷徹に現実を、社会を、総じて現代を見つめてゆきたいと思っています」と、書かれています。
つまり、この詩集「青い自我像」では、自らが「精神障害者」であることをはっきりとカミングアウトしたうえで、そうした社会のマイノリティーであるがゆえに、ビビッドに見えてくる「社会の不条理」であるとか、「生まれ、生きていくことの哀しみ」といったことが、まさに珠玉の言葉のように次々と並んでくるのです。
この松原さんの詩集を読んで中で、私がいちばん「ハッ」と胸を突かれたのは、「利潤という名の暴力」「利潤という魔もの」という表現が出てくることです。
おそらく、私自身もどこかに「障害」というか、救いがたい「病」を抱えているがゆえに、こうやって何がしらのものを書き、他者に対してメッセージで伝えていくということをやっているのですが、結局、この世の中の本質とは、心を病んだ人間にしかおそらく見えないのではないだろうか、ということを、ふと感じたのです。
前置きが長くなりました。ここから、タイトルに書いた本題に入っていきます。
ちょうど、いま、政権与党・小泉内閣が「郵政民営化の導入」という、“オモチャ”をいじくり回し、コップ内の争いを演出することで、自らの「延命」をひたすら図ろうとしています。
そんな折り、前回の本サイトでも書きましたように、創価学会の組織的犯行である「NTTドコモ携帯電話通信記録秘密侵害事件」を東京地検特捜部が摘発に乗り出した一方、本日発売の写真週刊誌「フラッシュ」が、冒頭のスクープ記事として、あの「クロネコヤマトの宅急便」で知られる、ヤマト運輸の手掛ける「メール宅配便」で、大量の未配達メールを相手に届けないまま、密かに処分していたことが明るみになりました。
たまたま偶然にも、「郵政民営化の論議」、「NTTドコ携帯電話通話記録漏洩事件」、「ヤマト運輸のメール宅配便大量廃棄事件」という、一見、何ら関係のない3つの出来事が重なって起こったように思えますが、しかし、よくよく目を凝らしてみると、こうした事象の間には、繋がる1本の糸が、じつは存在しています。
それが、人間の自由の根源にある「通信の秘密」の存在です。
今回、NTTドコモ携帯電話秘密漏洩事件で、信濃町謀略部隊の末端に位置する嘉村の逮捕容疑は、通信の秘密を侵害した「電気通信事業法違反」ですが、じつは、「通信の秘密」というのは、日本国憲法にちゃんと明記している、「人間の自由」を守るための大もとに存在するものなのです。
日本国憲法をひもといていきますと、第19条から、第23条にかけて、「自由権」に関する記述が出てきます。念のため、その条文を以下に列挙します。
第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
第21条 集会、結社及び言論その他の一切の表現の自由はこれを保障する。検閲はこれをしてはならない。通信に秘密は、これを侵してはならない。
第22条 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。何人も外国に移住し、又国籍を離脱する自由を侵されない。
第23条 学問の自由はこれを保障する。
ここでもう少し詳しく、「システムとしての、人間の自由権」が、いかなるプロセスを経て、「行使」されうるのかを検証しますと、まず、いちばん最初に「思想及び良心の自由」や「信教の自由」、「学問の自由」といったことが、ひとりの人間のアタマの中で構築されます。
しかし、人間社会においては、そのことをたった一人でぼんやりと夢想しているだけでは何も変わりえません。私たちの生きていくこの社会を「よりマシ」なものにしていくには、そうした思いを他者に伝え、働きかけるプロセスが必要となります。
それが、いわゆる「集会、結社及び言論その他の一切の表現の自由」や「居住、移転の自由」といった、「自由権の行使」ということにつながっていくのです。
しかし、もっと根本的に見た場合、「人間の根源的な自由の保障→その自由権の行使」というプロセスの根幹に位置するのが、じつは「通信の秘密」なのです。
つまり、個人は誰かと手紙や電子メールを交わしたり、電話をかけてコトバをやりとりすることにより、そうしたことで実際に会って面談することなどで、そうした個人の思いや思想が、よりクリアになり、はっきりとしたものになっていきます。そうしたプロセスを通じて、「じゃあ、何かの媒体にモノを書いて、私たちの主張を発表しましょう」「デモを組織して、私たちの考えを社会に訴えていきましょう」という動きが出てきます。
しかし、その際、「通信の秘密」が保障されていなかったらどうでしょう。
「もし、このケータイで誰に電話をしたかがすべて組織内で筒抜けになってるかもしれない」「郵便局に出した手紙が、途中で検閲されて、中身がチェックされているかもしれない」という不安を抱いたら、人間は「自由な思想」を抱いて、行動に移そうとするでしょうか。
別に、内部の謀略機関や国家権力が、毎回、毎回、通信の秘密を侵していなくても、「そうやって、通信の秘密が侵害されているかもしれない」と思うだけで、私のように救いがたいビョーキを持っている人間は別ですが(笑)、フツーの一般の人は「こんなことを思っていいのだろうか」「こんなことを相手に伝えていいのだろうか」と、自らの思考、行動を萎縮させてしまいます(これを専門用語で「チリング・エフェクト」といいます)。そこから、「人間の根源的な自由の死滅」が始まります。
つまり、「通信の秘密」を侵害するということは、単なるプライバシーが侵されたといったレベルを越えた、極めて大きな問題なのです。
そこで、話を「郵政民営化」の方に持っていきますと、9月29日付け朝日新聞朝刊の世論調査で、「有権者はいま一番何に政権にやってもらいたいか」との問いに、「年金・福祉問題52%」「景気・雇用対策28%」に対し、「郵政民営化の実現」は、何と「憲法改正の実現(=5%)」を下回る、わずか「2%」でした。
私個人は、その郵政民営化の細かい議論はよくわからないのですが、「そもそも、なぜ、いま、郵政民営化が必要なのか?」ということがわかりません。
というのは、私が大学時代に中曾根政権下で進められた「国鉄の分割・民営化」というのは、まだ、私のような阿呆でも、その「大義名分」くらいはわかりました。なぜなら、当時の国鉄が「膨大な借金」を抱え込んでいたからです。
ただ、今回の郵政民営化の論議は、そういった要因ではなく、要は「小泉の趣味」にすぎないわけです。
確かに、郵政民営化が進むことで、地方の不採算部門が切り捨てられたりすることによる、「地方いじめ」だというギロンもわからないではないですが、もっと大事なことが、じつは今度の「ヤマト運輸の宅配メール大量廃棄事件」に存在していると思います。それが、「利潤という魔もの」であり、「利潤という名の暴力」ではないでしょうか。
さすがに、今だにお役所根性丸出しの、郵便局のサービスの悪さには、私もアマタに来ています。
つい先日、近所の郵便局(特定郵便局)に行ったら、午後5時で窓口が終わりで、私は5時5分ごろに行ったら、「もう、今日の業務は終わりです」と、郵便が出せませんでした。「テメー、その真っ向サービスなんていうキャッチフレーズは、看板に偽りありだろ!」と、その職員の胸ぐらをつかんで、どなりつけてやろうかと思いましたが(笑)、ですが、そこから歩いてそんなに遠くないところに、中央郵便局があって、そこは24時間の受け付け窓口があるので、別にそういった怒りもじつは持続性に欠けるのです。
それよりも、「もっと重要」というより、「最も重要」なのは、図らずも、今回のクロネコヤマトの宅配メール大量廃棄事件で表沙汰になってしまいましたが、自由の大本にある「通信の秘密」をいかに守るか、ということではないでしょうか。
これは私のカンですが、こうして発覚したのは、おそらく「氷山の一角」で、まだまだ隠されているケースももっとあると思います。
確かに、郵便物が「早く、安く」、相手に届いてほしいというのはありますが、それより大事なのは、「通信の秘密」を守るということではないでしょうか。
なぜ、そのクロネコヤマトのケースで、大量の宅配メール大量廃棄事件が起こったのかは、その詳しいプロセスはわかりませんが、要するに「利潤という魔もの」、「利潤という名の暴力」ゆえに起こったものではないでしょうか。
結局、なぜ、郵便局員を「公務員」の立場にしているのかといいますと、結局、彼らには日本国憲法で保障された「通信の自由」を守るために存在しているからではないでしょうか。それは、あらゆる「利潤追求」よりも最初に守らなければならないプリンシプルではないでしょうか。
極論を言えば、私はいまの郵便局にそんな民間業者並みの迅速配達といったサービスは、さらさら求めていません。それより、「信書」という通信の秘密を侵すことなく、たとえ時間がかかってもいいから、確実にその郵便物を相手に届けて欲しい。ただ、それだけです。
ところが、昨今の「郵政民営化の議論」を見ていると、自民党内の“抵抗勢力”も、野党の間からも、こうした根源的な「通信の秘密」をどうも守るのか、というところからの問題提起がないのが、本当にフシギでならないのです。それも含め、今度の「郵政民営化」というのが、小泉内閣というより、自民党(=自・公)政権の延命を図るための「オモチャ」でしかない、という所以です。
いま、確かに「憲法改正論議」が喧しいですが、何かと、その議論の対象が「第9条」に限定されているのも、すっごく違和感を感じます。
もちろん、憲法第9条の存在は重要なのですが、トータルとしての日本国憲法の意味を、私たちの日常生活と照らし合わせながら、どう自らのものとして血肉化させていくかということを、それこそ脂汗を流して考えなければならないと思います。
そこで、ただ単に「9条」をいじくり回して、自衛隊を「軍隊」に格上げさせて、アメリカの軍事侵略の「手先」に使い倒そうとする極右反動の連中のアタマの悪さにも辟易としていますが、しかし、その一方で、何とかのヒトツオボエのように、「9条改悪、ハンターイ」とノー天気にわめいているだけの「負け犬サヨク」の人たちについても、それと同じくらいの違和感を感じています。
もっと、言わせてもらえば、「憲法を守る」ということは何なのか。
それは、結局、憲法の一字一句を変えないということでなくて(もちろん、私は今の憲法に手をつける必要はまったくないと思っていますが)、こうした日常生活において次々と起こっている、さまざまな「不条理」に対して、臆せず声を上げ、ただしていく「行動」の中にこそ、存在するのではないでしょうか。
そうした「通信の秘密」を守るということにおいては、そもそも「盗聴法」(=通信傍受法)という存在が、憲法違反であるのは言うまでもないですが、その盗聴法がとりあえずは、薬物犯罪や銃器摘発などの「組織的犯罪」だけを対象に限定している分野に、「テロ対策」を入れて、拡大しようと狙っていることを、昨日の読売新聞の朝刊が報じています。
「テロ対策」にも「盗聴法」を適用するということが、ちょっと考えれば、いかに危険であるかがわかりますが、そこで、「テロリズム」の定義を曖昧にさえしておけば、あらゆる事案に対して、この盗聴法を適用することができるわけです。
100歩譲って、「盗聴法」の適用拡大をしたい法務省(実際に盗聴法を適用するのは警察だが、法案審議は法務省マターの話)に対して、私は「じゃあ、これまで盗聴法にどれだけの効果があって、そのことによって法律制定後、拳銃が何丁押収されたのですか?」ということを聞きたいですが、そうした“実績”もなしに、「テロ対策」と名がつけば、これもナントカの一つ覚えのように、何でもできると思い込んでいるのは、じつはアメリカの猿マネなのです。
まあ、盗聴法をテロ行為に適用拡大するというのは、9・11以降に急遽、土石流のように成立したアメリカの愛国者法の中に入っており、小泉が「ブッシュの犬」であるとするなら、日本の法務省は「アッシュクロフトの犬」でしかないのです(笑)。
そのアメリカですら、こうした捜査盗聴の「テロ行為への拡大」に対して、イラク戦争の長期化(泥沼化)によって、世論の歯止めがかかっている状況に、どうしてこうした情報をヨミウリにリークしているのかわかりませんが、これもおそらく、「NTTドコモ携帯電話秘密漏洩事件」の「余罪追及」に対する、「腐れ法務・検察」(=悪の検事総長・松尾邦弘)から信濃町(=池田大センセイ)へのシグナルでしょう。
つまり、法務・検察サイドが、この16日付け朝日新聞朝刊に、厚生労働大臣だった坂口力がじつは日歯連サイドから200万円をちゃんと受け取っていたことをリークする一方、こうした一連の「悪法の適用拡大」に際しても、「99年の土石流国怪のときのように、マルハムさんにはくれぐれもよろしくお願いしますよ」という、シグナルなのです(笑)。そうすれば、「嘉村の1件だけで、今回の余罪捜査はやめときますよ」といったところでしょう。
それはともかく、いま私たちが大事なのは、こうした「通信の秘密を守る」ことがいかに重要なのことか、そして、そうした「通信の秘密を守る」という行動とは、そうした抽象的な文言をただ空念仏のように唱えることではない、と思います。
敢えて言うのなら、こうした「NTTドコモ携帯電話通信記録漏洩事件」、「クロネコヤマトの宅配メール便大量廃棄事件」といったものの背後に何が存在しているかを見据え、そして、考え、さらにはそうした「不条理」をこうして告発していくことでないでしょうか。
さらにもっと言うのなら、「通信の秘密を守る」、さらには「憲法を守る」ということとは、こうした個別具体的な事象を捉え、そうした不条理を撃墜させていく行為の中にしか、おそらく存在しないのではないのか、というのが、私の考えです。