資本主義にある本質としての「格差創出」(その7) |
「一般意志」は、フランス語で「volonte generale」といいます。ルソーの思想においては、「特殊意志」(=volonte particuliere)と対で用いられることが多いです。なお、この「特殊意志」の総和として、「全体意志」(=volonte de tous)という用語も使われています。
「volonte」というのは、日本語で「意志」と訳されている通り、「何かを成し遂げようとする力」のことです。フランス語は英語と違って、通常、形容詞が名詞の後ろ側に来て修飾しますので、そこで「一般意志」の「一般」に相当する「general(e)」ですが、辞書的には「普遍の、一般的な、全身の」という訳語が与えられています(なお、名詞として使う場合は、「将軍」という意味になります)。
これに対し、「particulier(e)」とは、形容詞で「個人の、私的な、個別の」という訳語が与えられており、これを名詞で使うと、「(公人でない)私人、個人」という意味になります。わかりやすくかみ砕いて言うなら、「一般意志」とは、「公正さや正義を求める意志の力」、そして、「特殊意志」とは、「私利私欲」と言い換えてもよかろうと思います。
ただ、これでもまだ、「一般意志」とは抽象的で、わかりにくい表現だと思いますので、さらに噛み砕いて説明しますと、ルソーはこの「一般意志」について、次のように説明しています。
「(一般意志とは) 生まれがならにして自由である人間の、一切の根源であり、原初の力であり、それは『公共の利益』へと向かい、常に正しく、純粋である」
これは、ルソーが人間の「自然状態」において見立てた、「人間の善性」のありようを説明しているといってよいと思います。敢えて言うなら、個々の人間が、こうした「一般意志」を持つに至ったことで、野獣とは分け隔てる存在、すなわち、「人間」になりえた、ということです。
しかし、文明の進展は人間を堕落させました。その根源にあるものが、私有財産の中でも、「貨幣」という存在だと思いますが、そうした「私有財産」を果てしなく求めんとする「欲望」こそが、「特殊意志」に他なりません。それゆえ、「特殊意志」が、「自己優先」の方向へ傾くのに対し、あくまで「一般意志」の方は「社会的平等」を求めていく方向に向かう、とルソーは規定しています。
ルソーが1754年に著した『人間不平等起原論』は、原題は「Discours sur l’origine et les fondements de l’inegalite parmi les hommes」といいますが、その人間の不平等をもたらした「起原」にあるものが、じつは「私有財産」であると看破しています。
で、同じ「社会契約論」でも、イギリスのロックのそれと大きく異なるのは、じつは、この「私有財産」の取り扱いなのです。
ロックは、人間の自然状態における、天賦の権利、すなわち、「自然権」の中に「私有財産の所有権」を入れ、この「所有権の保障」こそが、政府設立の最大の目的である、としました。
ところが、ルソーは、「所有権」と「占有」を厳密に区別し、「占有」とは暴力的手段を用いて強引に奪い取ったものであるのに対し、「所有権」は、「法律の権原(=民法の用語で、権利の発生する原因)に基づいて初めて成り立つ」としています。
そして、ルソーはこのように「占有」と「所有権」を厳密に区別したうえで、文明社会における「人間の不平等」を解消するため━━それが、まさに「格差を是正する」ということですが━━、「私有財産」を法によって制限すべきであることを、その『政治経済論』において、明確に主張しているのです。
私は、この発想こそが、「ソシアル」の根源にあるもので、ルソーが「社会主義、共産主義思想のルーツ」だとされるのも、まさにこの部分です。
ただ、マルクス・レーニン主義においては、「私有財産の否定(=国家による没収) 」というところまで行ってしまっていますが、ルソーは「(格差解消のための)私有財産の制限」は言っているものの、私有財産を完全否定するところまでは到達してません。まあ、そこらの部分が、ルソーの社会契約論をそのまんまパクッた1789年の「人権宣言」に基づくフランス革命が、「ブルジョア革命である」とコキ下ろされる所以だと思います。
ルソーが、「私有財産の制限」は主張しても、「私有財産の完全否定」まで行かなかったのは、一つには、原初の自然状態から文明状態に移行してしまった人間というのは、最早、「禁断の果実」を食べてしまったがゆえとでもいうのか、現実においては、もう、「自然状態」には戻れないという認識があったのだと思います。
それがゆえに、「一般意志」の力によって、社会契約を結ぶことで「正当な権力」(=主権)を打ち立て、それを「法」によって、政府に執行させるという統治システムを編み出したわけです。そこらあたりが、ルソーのこうした社会契約論を批判する形で、アナーキズムを唱えた、同じフランス人のプルードン(1809━65)の立場とは違うところです(むしろ、プルードンは原始共産制ともいうべき場所に立ち返ることで、政府の存在自体をも否定する方向に行ってしまいましたので。その根底にあるのは「結社批判」ですが、そこらのあたりは、マルクスがそのプルードンを『哲学の貧困』 において徹底的にこきおろしたところとも合わせて、また、後で触れたいとは思っています)。
それはさておき、ルソーは、「悪い政府」によって、「格差が拡大してしまった文明社会の状態」について、『社会契約論』の「第1部・第9章 土地所有権について」の脚注で、次のように述べています(ルソーはしばしば、こうした欄外の脚注の書き込みで、「オーッ」という内容に触れています)。
━━悪い政府のもとでは、このような平等は見かけ倒しであり、空想的なものだ。それは貧乏人を困窮の中に、金持ちをその横領の中に維持するだけにしか役立たない。実際には、法律は常に「持てる者」には有益で、「持たざる者」には有害である。だから、社会状態というものも、すべての人々が何物かを持ち、その中の誰も持ち過ぎていないという間だけ、人間にとって有益であるに過ぎない。
このように、ルソーは「格差の拡大」については批判し、それを解消すべく「法」を執行するのが、主権の行使たる「政府の役割」だとしてますが、ただ、私有財産そのものは完全否定しているのではなく、「ほどほどに持っている分には、決して無益ではない」ということは言っているのです。
これはおそらく、現実においては、最早、「自然状態」には戻れない「文明社会」において、人間が生きていくための「自由」を確保するためには、最低限の「私有財産」は必要である、ということに他ならないと思います。それがおそらく、マルクスが言っているところの「貨幣とは、鋳造された自由である」という部分にもつながってくると思います。
とはいえ、ルソーは「持ち過ぎたる私有財産」についても、容赦ない批判を加えており、初期の『学問芸術論』における、「ボルド氏への最後の回答」の中の、これまた欄外の脚注において、こんなことを言っています。
「私の考えは、奢侈は全く必要ではないということです。身体に必要なもの以外はすべて悪の源なのです。自然は多すぎるほどの欲求を、我々に与えているのです。必要もないのに欲求を増し、そうすることで自分の魂を以前以上の隷属状態に置くのは、少なくとも分別のないことです」
そこで出てくるのが、こうした「格差を是正する」ためになすべき「政府の役割」ということなのですが、ルソーはその『政治経済論』において、こう明快に述べています。
「したがって、政府の最も重要な事業のひとつは、財産の極端な不平等を防止することにある。それは財貨を所有者から取り上げることによってでなく、それを蓄積するすべての手段を取り除くことによって、また、貧乏人のために救済院を建てることによってでなく、市民が貧しくならないよう保証することによってである」
で、この具体的な施策として、その『政治経済論』で言及されているのが、累進課税の強化、奢侈税の導入、さらには相続税の導入ということまで提言しています。フランスにおいて、絶対王政の最中にあった18世紀中ごろに、こうした政策提言をルソーが行っているのは、まさに「革命的」と言ってよいと思います。
とりわけ、「累進課税の強化」という点については、「他人より10倍の財産を持つ者は、10倍だけ多く(税金を)支払うべきである」といい、また、「奢侈税」については、「私有財産を、必要物と余剰物とに区別し、必要物しか持っていない人は税金を支払う必要はないが、余剰物を持っている人の租税については、必要に応じて課税し、その必要分を超える程度にまで及ぶことができる」としています。
また、相続税については、こう述べています。
「所有権はその本性よりして、所有者の生命を越えて広がるものではなく、人が死ぬや否や、その財産はもはや彼には所属しないということである。(略)一般に、私有財産の処理について個人の力を統制する法律を設けることは、主権者にのみ属することではあるとはいえ、政府がそれを適用するにあたって従うべき法律の精神は、家族の財産が父から子へ、また、近親から近親へと、できるだけ少なく分けられ、譲渡されることにある」
しかし、ルソーの言う、こうした「累進課税の強化」「奢侈税・相続税の導入」とは(ここでいう「奢侈税」とは、広い意味では「累進課税、相続税の強化」というふうに捉えていいと思います。もちろん、狭義では、ぜいたく品に税金をかけるということですが)何のことはない、戦後の日本の自民党政権がやってきたことで(笑)、そうした結果が、あの「1億総中流社会」の実現だったと思います。
人間は失ってみて、初めてそのありがたみがわかると言いますが、私は物心ついてから、そうした「1億総中流」の「横並び社会」しか知りませんでしたので、確かにそこにある「デメリット」も十分に身に染みてわかっています。そうした「行き過ぎた悪平等」(=バカ平等主義) が、「進取の精神」を持った人間の足を引っ張り、いかに起業や創意工夫の意欲を削いでいるかも、重々、承知しています。
ですが、昨今の、グローバルな規模で進んでしまった「格差拡大社会」のもたらした結果を見るにつけ、「さすがに、この緩めたネジをそろそろ締め直す時期にさしかかっているのではないか」というふうに思っています。
その意味では、私は「経済政策」においては、よく言えば、じつにフレキシブル、悪く言えば、何とも日和見とでもいうか、ブッちゃけていえば、最近はそろそろ「規制緩和至上主義=自由競争バンザイ路線」にも「飽き」が来てしまったというのが、ホンネに近い部分です。私個人に関しては、ルソーがそうであったように、好きなことをやって、それで最低限の生活が送れれば、それでチョーOKで、他に特に欲しいものもない。
だとすれば、さすがに、世の中が「格差拡大によるひずみ」が日本はもとより、世界規模で広がっていっている現状を省みたとき、ここらで私も“転向”してもいいかなあ、と思っただけでしょうか(笑)。その意味では、時代のトレンドは「ソシアル」に傾いてきていると思います。(この項つづく)
#今日(5月22日)の日経朝刊が、1面で「政府、公益法人の収益事業の課税強化を検討」をスッパ抜いておったな。アタリマエや。消費税率を上げる前に、もっと税金を毟り取るところがあるだろうが。 特に「宗教法人」にガンガンと課税せんかい。そんなせせこましく「収益事業」に限定するんでなく、「お布施」(=宗教活動本体)にもちゃんと課税せんかい! 特に毎年、ン千億円もお布施のある、チョー巨大な新興宗教法人があるからな(笑)。税率70%ぐらいかければ、1000億円単位の税収が見込まれるな。社会保障の財源にサイコーやないか!
#武富士元会長(=武井保雄)の長男に対する株贈与への課税取り消し処分の是非を巡る5月23日の東京地裁判決は、なかなかオモロイな。だいたい今回のケースは課税金額だけで、ぬあんと1330億円(個人としては過去最高の金額らしい)、で、今回の課税取り消し認定の判決によって派生する還付加算金(=利息)だけでも、約130億円か。まあ、ワシらビンボー人には縁のない「おとぎ話」の世界やな。争点は、当時の税法(2000年の改正前)では、「国内に住所がない場合は、国内財産の贈与には課税されない」との規定があり、武富士元会長の長男は「住所地は香港にあり、日本ではなかった」という主張をし、それが裁判所に認められた格好やな。新聞記事を見る限りでは、実質的な居住地が日本か、香港であったかで、国税と大ゲンカになっていたのか。そもそも、銀行も含めた金融業、すなわち、「高利貸し」って本当に儲かるんだなあというのが、改めての実感であるのと、庶民感情的には、「大金持ちからはもっとジャンジャン税金毟り取れよ」ってのはある。当事者同士の具体的な争点については、細かい部分はわからんが、ただ、日本の裁判所も、現時点では、まだ、「小泉ハードランディング的構造改革&スーパーリッチ優遇路線」を支持しているってことなんだろうなあ。ま、裁判所の事実認定なんて、村岡判決の1、2審の判決で、シロ、クロが180度引っくり返ったように、「裁判長」の心証によって、ナンボでも変わるからな。それはともあれ、「さるエライお方」も、相当な「個人資産」を持ってるってことか(笑)。こうした相続税とか、いったいナンボくらいになるんだろうなあ。
#「ゼロ」が、ネットカフェ難民の続きで、「若者のnew poor」の特集をやっており、まあ、これと似た企画はどこもやっておって、また、そうした内容の「格差拡大指摘本」は雨後の筍のごとく出て、このご時世だから、売れまくっておるが、ワシに言わせれば、こんなもん、「原因」あっての「結果」であって、こうした状況を生み出した「根本原因」に切り込んでこそ、真のジャーナリズムではないのか。要は、「川上」で汚物を垂れ流しておきながら、その公害企業の責任追及は一切せず、「川下」の汚染にビックリして、大騒ぎしとるだけやないか! 村尾は大蔵キャリア官僚として、政権中枢におって、そうした「裏のウラ」まで知っとるんやからな。すべての出発点は、85年9月のニューヨーク・プラザホテルにおける「竹下・ベーカー会談」から始まっておるんぢゃないか! ほいで、「今後は、社会保障を年寄りから若者にもイッパイ 回せ」で、モンダイの根本解決になるか? こうした「(使い捨てのコマとしての)若者層切り捨て」のおかげもあって、今年3月期の東証一部上場企業が全体で、「5年連続増収増益」で、過去最高益を出した企業(例えば、トヨタ自動車、三菱商事、新日本製鉄、任天堂、JR東海、コマツ、シャープ、商船三井)が続出しとるんだから、一連の「規制緩和」の効果が出てきたことを受け、せめて、「法人税の税率を元に戻すべきだ」ってぐらいは言わなアカンだろうが。ま、そんなことを番組で言ってしもうたら、スポンサーに楯突くことになるから、すぐに「クビ」やけどな(笑)
#書くとこがないんで、こんなとこに書き込んでおるが、今日(6月5日)発売の週刊朝日で、「松岡自殺」に関し、「ムネムネvs中川秀」の大バトルが繰り広げられておったんやな。で、松岡は5月24日にムネムネと会うた際、「鈴木先生、有難いお話ですが、今は黙っておいた方がいいと国対からの、上からの指示なのです」 と漏らしていたというが、ここにある「上」とは、素直に読めば、「国対委員長の上」、つまり、「幹事長」(=中川秀)ってことだわな。もっとも、ここで「黙っておいた方がいい」というのは、いろいろと叩かれてきた「事務所経費の詳細」ってことなんだろうな。ただ、今回の松岡自殺の理由について、ワシは具体的な情報は全く持っておらんということをまず断っておいたうえで、しかし、地検の捜査が迫っていたことだけは疑いの余地はない。ただ、その「接近度」がどの程度だったかは、わからない。これまでの報道を総合し、ワシなりに分析すると、地検の現場はおそらく、松岡をパクりたかったのは間違いないが、コレはまず、永田町に話を持っていく前に、「赤レンガ」の中で了承を取る必要がある。現役の与党国怪議員、それもアベ内閣の重要閣僚なんだから、当然、「但木案件」、つまり、「御前会議」での了承が要る。そもそも、今回は、御前会議が開かれたのか、それとも、開かれなかったのか。もし、御前会議で仮に「逮捕OK」の了承が出ても、今は国怪会期中だから、逮捕許諾請求をして(国怪法の規定では、裁判所にお札を請求する前に)、院の了解が要るが、その国怪で了承する前段階として、まずは、内閣の承認が要るんだよな。まず、内閣がOKを出し、そこから逮捕許諾請求を国怪に諮るというわけだ。ここでいう「内閣」とは、オモテのルート(=法務大臣)を通じてだが、それ以前に(もしくは同時並行で)ウラのルート、つまり、国対レベルで打診があった可能性はあるかもしれない(ま、具体的な打診というより、そこはいかにも日本的な「阿吽の呼吸」みたいな、それとない匂いだろうなあ)。一般的には、天皇の認証官である「高検検事長以上の人事案件」と同様、逮捕許諾請求というのは、法務大臣の決裁でOKだが、これは「加納人事」と同様、「法務大臣より上」、すなわち、ソーリ大臣(=アベ)のところまで話が行く案件だ。 そういうことから考えても、「自殺」という選択肢は、相当、追い込まれていない限り、取り得ないとワシは思う。
腐れ法務・検察も、アベも口を揃えて否定はしているが(で、赤レンガはともかく、アベがぬあんで、こんなことにいちいコメントしとるのかも、ワシ的には、よう、わからんのだが)、ただ、松岡に対して、身柄を取らないまでも、まず、パクる前に「被疑者として、任意の取り調べをするので、出頭を願いたい」との申し入れはあったのではないか。それか、ひょっとしたら、赤レンガ側は、既に「松岡の身柄を取る」という意思決定をし、「タイホ許諾請求」を法務大臣に対し、行っていた可能性もあると思う。というのは、今回、「(法務大臣による)指揮権発動」云々というウワサ話が出ているあたりに、どうも妙な臭いをピンと感じる。突然、降って湧いたように松岡の「タイホ許諾請求」が出てきてしまって、“奥の院”ではテンヤワンヤの大騒ぎになっている中で、松岡は観念して、首を吊ってしまったのではないか。そんなストーリーをワシは思い描くのや。しかし、このテのネタのウラを取るのは至難の技やで。01年10月28日の後藤田事務所における「小泉純一郎━原田明夫怪談」のウラを取るのと同じくらい、難しいで(笑)
ただ、そこに至る背景として、ここんところの無罪判決の連発、そして、最近でも富山での服役後の冤罪判明など、イマイチ、ノリがよくない裁判員制度の開始を前に、今、刑事司法に対する市民の冷ややかな視線、つまり、「検察不信」がある。こうした局面を打開するためには、「現職大臣の身柄を取るしかない」と、但木あたりがあせりまくって最終判断した可能性はあると思う。そういうことから推察しても、相当程度の、差し迫った危機が松岡に迫っておらなければ、アベに宛てて遺書を書くわけがないぢゃないか! 松岡だってバカじゃないから、自分がタイホされれば、その時点で、アベ政権がドカーンと吹っ飛ぶことぐらい、百も承知のはずだ。それゆえ、松岡は自らのハラを切って、アベ、そして、中川秀を、とりあえずは守った形にはなった。しかし、「政権中枢の膿による腐敗」は、いよいよ来てるな、という感じがする。「夏本番」に向け、どうも「山」が大きく動く予感がする。
#これもホンマ、誰もきっちりと批判せんから、しょうがなくワシが書いておるが、このドサクサに紛れて、マルハムがその「上」の宇宙基本法案に合わせて、突如、この6月5日、もちろん、イケダモン大先生の指示で、来年から、国政選挙にも電子投票を使えるようにする改正電子投票法の今国怪の提出をOKしとるやないか(笑)。これまで、「セキュリティの面からモンダイがある」って反対しとったのに、例によって「一晩にして」の方針転換や。99年の自自公路線とクリソツやな。まあ、ヒマな人は拙著『デジタル・へル』(第三書館、2004年)を参照して頂きたいが、この電子投票の最大かつ唯一のモンダイ点は、「投票者の投票が本当にカウントされているか」という点に尽きる。紙と違って、電子媒体は「実体」がないから、いくらでも票操作できるからな。「紙」ですら、「詐欺投票」が起こっているんだから、それをデジタルでやったら、不正はナンボでもできる。それを防ぐには、まず、ソフトのプログラムのソースコードがオープンにされていなければならないが、さらには、「紙」と違って、「実体」がないのだがら、本来であれば、「有権者がどの候補者に投票したか」という記録まで保管しておかなればならなくなるが、そうすると、「投票の秘密」は守れない。今まで、わずかの自治体で先行導入されている電子投票機はこうしたモンダイ点をまったくシカトしとるからな。ま、どうせ、全国通々浦々の自治体は「夕張市状態」だから、年に一度使うかどうかわからんガラクタに予算を投入する余裕はないから、まあ、もし導入したい市町村(ただし、東京23区に関しては、都が徴収を代行) は、さるエライお方の専用施設から、固定資産税をジャンジャンむしりとって、購入費用に充てればいい(笑)。石原も朝鮮総連という弱い者イジメばっかりしとらんで、23区内にあるイケダモン専用施設に課税するだけでも、相当な金額になるからな。ま、去勢された老いぼれタカに、もう、噛み付くエネルギーもないだろう。それはそうと、「猪瀬案件」はちゃんと都議会自公に根回ししたんか? ヤツら、 ヘソ曲げて、議会非承認ってことになったら、今度は、こっちは再来年夏の「都議選ダブル」が見えてくるからな(笑)
#って書いた矢先に、6月13日に警視庁北沢署地域課の巡査長私有のパソコンがウィニーに感染して、Nシステムや捜査情報が計1万件もネット上に流出しとったことが明るみになったのか(笑)。だから、「デジタル化」は怖いんだって。ネットに繋げたら、どう流れるかわからんからな。「上」で書いた「電子投票」でも、「投票情報」をネットで送信すれば、いくらでも外部からハッキングできるからな。これは、ウィ二ー対策云々よりも、「大事な情報はPCに入れない、ネットには繋がない」というしかない。ワシも重要なネタはPCには入れないっていうより、自分のアタマの中に叩き込んでおく。そういうアナログというより、人間の五感と頭脳を駆使した「裸の記憶力」って大事だと思う。でなければ、マイクロソフト以下、そういったIT関連の会社を全部、廃業させて、インターネットを廃止するしか、方法はないで。PCは人間の頭脳の働きの一部を代行するわけだから、よくも悪くも、こうした機器に依存してると、必ず、人間の思考低下をもらたす。それだけは間違いない。だから、今の時代こそ、「野性の思考」(もしくは、思考の野性性)が必要だと思う。